最高の任務感想
「自分を書くことで自分に書かれる、自分が誰かもわからない者だけが、筆のすべりに露出した何かに目をとめ、自分を突き動かしている切実なものに気付くのだ」(乗代雄介『最高の任務』p174)
「他者との偶然的な出会いを、ひとことで「出来事」と呼ばせてください。 出来事から直接にこだわりが結実したのではない。こだわりとは、出来事が、ある環境のなかで言語を通して意味づけされ、機能をもつようになった結果である。出来事は、たんに偶然的、無意味で、強烈なものなので、自分はそれを言葉でなんとか意味づけして「納得」しようとした」(千葉雅也『勉強の哲学』p146)
わたしのなかでは乗代雄介と千葉雅也が会釈をして通り過ぎていった……という感じである。引用したふたつの文章は響き合うというわけではないのだけれどもわたしはここに「書くこと」についてのふしぎな共生を感じずにはいられない。自分というものが他者ひいては言語(ことばは他者から教えられるものだ)を通してしか存在できないのなら「「あんた、誰?」と絶えず問い続けること」は自分と自分を構築した他者(言語)について問い続けることと同義である。そして大好きな叔母に出会った、わたしが生まれたという出来事は偶然的なものでそれを意味づけするならばことばで納得するほかない。ゆえに「絶えず書き続けるべきだったのだろう。生きているために」なのだ。叔母という他者に出会いなおすには日記というテクストに出会いなおすほかないのである。ことばに絶対的根拠はない。「言葉の意味、すなわち言葉の用法は、たんにその環境において「そうだからそう」というだけで、絶対的に根拠づけられているのではない」からだ。だから「あんた、誰?」と常に問い続けることだけが誠実な態度であり、それだけが唯一の生き方の問題でもある。
けれども、もし、この世にたしかなことなんてないのだけれど、それを「信じる」ということが可能なのだとしたら……それに答えたのが『最高の任務』という小説である。「書くこと」はどこまでもわたしを信じさせない。書かれたものの根拠は別の書かれたもので際限なく書かれてあったことにしか根拠を見出せないからだ。
「信じるということは、確立や意見、事実すらを向こうに回した本当らしさをこの目に映し続けることである」
ここにきて『最高の任務』という小説は信仰を告白する。「あんた、誰?」それはわからない。わからないがしかし、祈ることは可能だ。そして「信じること」が「書くこと」を乗り越えていってしまうその結末は小説でしかできないのだ。「書くこと」を書かれたまま凌駕するその鮮やかな手法に今はただ見とれるほかないのである。