見出し画像

「ふつう」の蕎麦屋の尊さ

「ふつう」の蕎麦屋とは、だいたい昔から商店街にあって、大体のメニューがそばかうどんで選べて、一杯1000円行かないくらいで、カツ丼や天丼とかもあって、客層は若者から老人、サラリーマン、家族など老若男女いる感じの蕎麦屋だ。だいたいどこの街にもあるだろう。店に入るなり訪れる安心感。初めて訪れる店でも、何故か勝手が分かるあの雰囲気。そういう蕎麦屋は、その魅力が当たり前のものとされて、価値が蔑ろにされているのではないか、と思う。わたしはそんな、街のふつうの蕎麦屋を訪れたとき、東京事変の「ふつうとは」の歌詞を思い出す。

サプライズしたいけどサプライズしてほしくない
毎日同じように安心繰り返したいよ臆
鰹節と昆布の御御御付けはいつだって
柔らかく澄んでいます滅茶普通の味
理由もなき力よ どんぴしゃり妙に
全部丁度いいのを愛しているだけだ
もう黙り込むくらいに当たり前の強さ
こうした自然をつい普通と読んじゃう咄嗟に』

そう、味噌汁を飲んだときも「あー、うまい」と思うんだけどそれが普通すぎて、いっさい心に残らない。
普通イコール価値があまりないもので、どこにでもある、有り難みのない存在みたいになっている。けれど、この歌詞のいうように、「どんぴしゃり妙に全部丁度いい」。無意識レベルで「これだよ、これ」と心身が頷いているのである。
どこにでもあるふつうの蕎麦屋は、そのふつうさを含めて尊いものなのだ。予定調和の美というか、当たり前であることの有り難さというか。

たまたま訪れた街の蕎麦屋の、べらぼうに美味いわけではないがしかし心の隅々まで安心する美味さの蕎麦を食べて、そう思ったのでした。


いいなと思ったら応援しよう!