#3 かぞくのもんだいに助けられているかもしれない
ぼくは、このマガジンを読んでいただいて、
楽~になっていただけたらなぁって。
この前、お世話になっているコーチに
「あなたの内側はいまどうなっていますか?」
って、めっちゃ意味深な問いをいただいたんです。
一緒に考えていただけたら嬉しいです。
あなたの内側はいまどうなっていますか?
ぼくはこう答えました。
「お湯で満たされてます」
白湯をいただいたからとか、
その日、銭湯で温泉に浸かったからとか。
そういうこともあったかもしれません。
とにかく満たされていて、心地よくて。
あぁ、今日という一日に、何一つ後悔がないって思えた。
そんな瞬間でした。
自分の内側に目を向けていくってとっても大事なんです。
申し遅れました。
ぼくは、「ともあん」と言います。
このマガジンを手にとっていただけてとてもうれしいです。
「暮らしづくり・心づくり・夢づくり」をテーマのがんばる親子が羽根を休められる場所をつくろうとしています。そのために現在は、親子コーチングマスターインストラクターとしてコーチング講座を届けたり・薬膳師として心身ともに整える活動をしています。
こちらのマガジンや記事をご購入いただいた売上金は、実現の運営資金として役立たせていただきます。
さて、このマガジンは、「ともあん」が小学校教員を11年間勤めてきて、感じたエッセンスを詰め込んでいます。
なぜ、今かぞくをまなぶのかについては、こちらをご覧くださいませ。
https://note.com/hateshinaitabi/n/nb0165809aafc?magazine_key=m3d09b959fbee
今日のテーマは、
かぞくのもんだいに助けられているかもしれない。
ってテーマでお話をさせていただこうと思います。
前回の続編のような感じですが、
今回の記事からご覧いただいてもお楽しみいただけます。
▷かぞくをひらがなで書く理由
気がついていただけましたでしょうか?
ぼくはこれまで、「家族」ではなく「かぞく」とひらがなで表記をしてきました。
ひらがなの持つ柔らかさがいいなぁって思っているからってのもあるんですが。
今、家族の形ってすんごく多様だなぁって思っているんです。
家に一緒にいなくても家族。
血がつながっていなくても家族。
家族のような付き合いをしていますっていうのは、厳密に言うと違うんだろうけれど。
法律は家族の範囲をかなりゆるやかに定義しているんです。
念の為、引用すると。
法律ではこうなっているようです。
読みとばして大丈夫です。笑
固い話になってきたので、ほぐします。
やわやわ。
なんだか、かぞくのかたちってすごーく自由で。凝り固まったものではないんですね。
そう、つまり、もっともっとこれから柔軟になっていくんじゃないかなぁ・・・っていう思いで、「かぞく」ってひらがなで表記をしています。
そうそう、最近ね、ゲストハウスオーナーたちとよく話すんですけれど、
って言葉が出てきたなぁ。
▷もんだいもひらがなで書いてみました
目の前にあることを、ぼくたちはどうして「問題」として認識するのでしょうか。
それは、自分の解釈の域を飛び出ているもの。
自分にとって、不利益だったり不都合だったりするもの。
これを問題と呼ぶのです。
だから、実は別の人から見たら、問題ではない出来事もたくさんあるのです。
たとえば、この前ね。
木材屋さんに行ったんです。
そしたら、ぼくより若いお姉さんが木について熱弁するんですよ。
いやぁ、それがめっちゃ面白かったんですね。
木目って、木を切ってみてはじめて分かるじゃないですか。
日本人ってどんな木目を好むと思いますか?
日本人は、できるだけまっすぐで平行な線が出ている木目を好む傾向があるんですって。
だからね、木の芯が木目の中に入っていたりするのを嫌う傾向があるんですって。
さすがに芯があると、固くて製材しにくいですからね。
一方、カナダでは、不規則な模様が好まれるんですって。
なんだか、木目が生きているようでね。
同じものなんて一つもない。
それが、味なんですって。
だから、まっすぐな線は個性がなくてつまらない。
洗練された模様が好きな日本。
予測不能な模様が好きなカナダ。
どっちも別にいいとか悪いとかないんですね。
ただ、見る立場によって、問題は問題ではなくなるんです。
この世の中には、最初から「問題」として存在しているものなんてなくって。
ぼくたちは、もんだいを「問題」として捉えているにすぎません。
だから、ここではあえて「もんだい」って、ひらがなで表記しています。
▷この世の中に、必然なんてないのです
というのが、最近ぼくが考えていることです。
この世に意味のないことなんてない。全ては必然だっていうことを言う人もいていいと思います。
それも一理あると思いながら、ぼくは、あえて必然はないと言い切ります。
ぼくは、仏教の学校に勤めています。
弘法大師空海が開いた真言宗のお寺の学校なんです。
空海って、日本の歴史で出てきましたよね。
ぼくは空海のファンなんです。というか、旅した歴史上の偉人ファンです。
あの時代に中国で修行をして、日本でも旅をして。
山とかに登ると、
「ここの池は、その昔空海が杖をついたとき、湧き出たものです」
みたいな伝説がいくつもあるんですよ。
えぇ、こんなところにも空海来たのー?って。
それでね、空海ってね。
どんな世界観で生きていたかめっちゃ気になるなぁと思って、
最近紐解くようになったんです。
「であう」って言葉があるじゃないですか。
ここに、空海の哲学が詰まっているなぁって。
他にも、こんなのもあります。
でね、
空海は「であう」をなんと表現したかというと、
「出遇う」って書いたんですね。
「遇」には、「たまたま」っていう意味がこめられています。
この世の中に、決まっているものは何一つなくて、全てたまたまなんだって。
えー、だとしたら、全ては運まかせなのー?ってなりそうですが。
そうではないのです。
まかぬ種は生えぬのです。
だから種をまく必要はあるのです。
けれど、
種をまいたら、必ず10日後に芽が出る!だなんてことはないですよね。
11日後かもしれないし、12日後かもしれない。
もしかしたら、9日で芽が出るかもしれないけれど、
いつ芽が出るかなんて分からない。
もしかしたら、芽は出ないかもしれない。
種をまくことは大事だというんです。
種をまかなければ、芽が出ることはないんですから。
種をまいたら、
あとは、芽が出ることを信じて待つのみ。
あ、芽が出た!
その瞬間に起こるものは、「感謝」です。
そして、「ありがとう」と手を合わせて「祈る」のです。
めっちゃがんばって世話をしたから、芽が出た!と考えるのではなく、
たまたま芽が出たと考える。
だから、
こうして見えないものに合掌して、祈りを捧げる。
これが、仏の道に生きた空海の哲学だったのだと思いを馳せています。
めっちゃ深ーーーい!
このマガジンと出遇っていただいたことも、たまたま。
あなたとぼくがであったのも、たまたま。
ほら、なんかさ、この「たまたま」を感じるときって、
「ありがとー」ってなりません?
だから、あえてぼくは、かぞくのもんだいを考えるときも
原因以外のところを見ていきたいって思うんですよね。
もちろん、因果関係っていうのはありますよ。
けれど、それが本当に起こるかどうかは、そのときそのときの「たまたま」なんです。
ほら、もうね。
かぞくのもんだいを持って相談に来てくださった方々は、
ずーっとずーっと悩んでいらっしゃるんです。
その多くの方は、原因を考えることから抜けられない。
ぼくたちは、今直面していることを、必ず良い方向に捉えることができる。
そんな力があります。
出来事は、ただそこにあるだけ。出遇ったら、どう捉えるかは自分次第。
もんだいを「問題」にするのか、それとも「もんだい」のままでおいておくのかは、自分たち次第なのです。
因果関係の輪から抜け出して、たまたま今回起こったことを受け止めて、自分で答えを出していく。その力がぼくたちにはあるんです。
▷かぞくのもんだいを肯定的にとらえる
っていうのが今日のメインテーマです。
ぼくたちは、かぞくの中で、かぞくとともに生きています。
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