洗鉢(せんばつ)

 夜、キムチを食べたあとに出たプラスチックの空の容器を洗剤でゴシゴシと洗った。親の仇ほど洗ったのに、それでも容器の中身の匂いを嗅ぐとうっすらとキムチ臭がする。でも、そんなのは全然構わない。なぜならこの容器に買ったばかりの沢庵を入れるからだ。
 なるべく薄く切った沢庵をこの透明な容器にびっちり入れると、まるでサングリアのように鮮やかな黄色いオシャレな物体になる。いやいや、キムチの空き容器に沢庵だ。冷静に見るとおぞましい。それをそっと鞄に忍ばせた。
 出勤。始発の電車は余裕で座れた。膝の上に置いた私の鞄からはうっすらと沢庵の匂いがする。気がする。いやいや、気のせいだろうと思う。前日あれだけキチンと蓋を閉めたのだ。だが、その臭気の〝気がする〟はやがて確信に変わった。私の右隣りの熟女がおもむろにマスクをし始めたのだ。ノーマスクで乗車した女性が、途中駅から急にマスクをするだろうか。しないよな。そして、左側の女性も数駅でマスクをし始めた。
 沢庵臭は他に例えるなら屁の匂いだ。それは逃れようのない事実である。だが幸いに、前で立っている女性はマスクをせずにスマホを眺めている。このひとは蓄膿症なのだろうか。いや、1メートル以上離れると匂わないということにしておく。そうしよう。
 この特級異臭呪物を一旦寝たふりをして輸送し、なんとか目的地の駅で下車できた。
 会社に着くなり冷蔵庫の奥の奥にぶち込む。なぜなら社長の一番嫌いな食べ物が沢庵だからだ。なので目立たないようにヤクルトなどでバリケードの壁を作り隠した。
 そこまでしてなぜ沢庵を会社に持ち込んだのか。それは〝洗鉢〟をするためである。
 洗鉢(せんばつ)とは、禅宗の食事作法のひとつで、食後にお茶やお湯を入れて沢庵などの漬物で器を洗うことをいう。

 昼飯の後、空になった弁当箱にポットからお茶を注ぐ。弁当箱に付着した食べかすなどを沢庵とお茶できれいにこそぎ落とし、最後にそのお茶をぐいと飲み干す。弁当箱はきれいになり、食べカスなどのゴミも出ず、なんて私は環境に優しいのだろうか。このぐらいのエコなら私でも未来のためにできる。その積み重ねかも。

 腹をさすりながら、また沢庵の容器を事務所の冷蔵庫の奥の奥に隠しながら考える。

 次回はどうやってこの沢庵を運ぼうか。

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