
病んだ精神障害者手帳持ちの中年男性が正社員として人並みのお給料をもらえるようになるまでの回顧録③ 〜就労移行支援事業所に通い、就労するまで〜
就労移行支援事業所に通うようになった私は必死だった。
そこの職員から見ても、主治医から見ても、仕事をするのになにか能力を身につけなければというタイプではなく、継続して働き続けられるようになれば就労できるだろうというタイプだった。
もちろん多くの人がそれが難しいのだが。
しかし自分では対人恐怖が強くて、働くと考えると恐怖でしかなかった。
さて、それには休まず同じリズムで通所すること。これが第一だ。
そこの事業所は9:30〜15:00の開所だったため、その時間に週4日通うことに決める。
しかし、当時の私は午前中は起き上がることもつらく、毎朝這うように行っていた。
休まず通っていたが、午前中は度々休憩させてほしいと言って、休憩スペースの机に突っ伏して寝ることも多かった。
とにかく無理をしていたのだろう。
ある日、とある職員の方の言葉にショックを受け、心が折れてしまい、しばらく休ませてほしいと申し出た。(その言葉は適正ではなかっただろうが、いつ崩れるかわからない状態をひと押ししてしまっただけだと思う。)
それに対して、そこの所長に「まったく来るのをやめて接点を失ってしまうと、復帰できる人はそういない。週に一度面談にだけでも、来てタイムカードを押すだけでも来ないか。」と言われる。
尤もだと思うし、生きていくならそのほうがいいと思い、それからしばらくは午後に週に1回、所長ともう1人の職員の方と面談しに通うようになる。
この頃の私の考えは生きることと死ぬことの2本立てで進行しようというものだった。
第一希望は死にたいけど、死ぬのは難しい。なら死ねないパターンをBプランとして、より良く生きるために生活をしておこうという考え方だった。
生きていきたいとは思わないが、生きているうちはちょっとでも快適でいたい。
恐らく生きていく上で役立ったこと。
引きこもっている間は現実逃避と趣味でずっとゲームをしていた。
たしか最初の頃はモバゲーとか、スマートフォンが主流になると所謂ソシャゲなどをずっとしていた。
オンライン上ではあるが長年色んな人と遊んで交流をしていた。
主治医曰く
「長年引きこもっていたとは思えないほど社交性に長けている。それはやっぱりゲームをしてて他人と毎日やり取りをしていたおかげじゃないかなと思う。」
とのこと。趣味がゲームでよかった。
さて、そうして毎週面談に通うようになった私は、自分には午前中に働くのは無理だと悟る。そして週に5日以上働くのも無理だろうと思った。
以前書いていた飲食店の仕事も、毎朝這うように行って、早い時間はフラフラだった。
皆しんどいなと思いながら出勤してるから同じだと思っていたが、これはどうやら一般的なしんどさではないとようやく気づいた。
そして話す中でどんな仕事なら出来そうかと具体化していき、製造業など人とあまり関わらず、且つPCを使わない仕事がいいと思うようになった。
時間は夜でもいい、週に3〜4日働ければ上出来だろう。
こういう感じだった。
心身が少し回復し、再び通所する日を少し増やすように決める。
週1回→週2回→週3回、午後だけ。しんどい日は行って通所したという記録だけ付けて、作業はせずに帰る。もう失敗しないようにと、ゆっくりゆっくり。
こうして通所しだして1年半近く経った頃、転機が訪れる。
度々誘われていたゲームのオフ会に思い切って行ってみることにしたのである。
これまで色んなゲームで誘われても恐怖で行かなかった。だが、行けばなにか変わるかもしれない、このメンバーなら大丈夫かもしれない、と思い切って行ってた。
緊張してたけど思ったより普通に楽しめた。
ちなみに今も度々一緒に遊んでもらっている。
これによって意識的にも無意識的にも色々な心境の変化があった。
自分でも受け入れてもらえるんだなあとか、仕事してそのお金でこういう場に来られるようになりたいなあとか、自分と違っておそらく皆ちゃんとした社会人で劣等感があるなあとか、現状の私がどういう生き方をしているか知られたら怖いなあとか、とにかく色々と。
少なくともそれは間違いなく良い出来事だった。
就労移行支援事業所は原則2年(一応延長が1年可)で就労を目指す場所なので、そろそろ具体的な仕事を求人だけでも目を通そうかという方針になり、先述した心境の変化もあり、働くという方向へ進んでいく。
もちろんできる気がしないとは思いながら…。
就労移行支援事業所というのは障害者が働くための支援をしてくれる場所である。
本人の意思によるが障害をオープンにして求職する場合、面接に同行してくれたり、条件面の交渉をしてくれたり、就労後も定期的に会社を交えて面談してくれたり、色々な支援が受けられる。
障害者雇用の場合は特に至れり尽くせりだ。
色々なことが恐怖だった私はもちろんそうするつもりでいた。
しかし、私が住んでいた近くには、希望する製造業のハローワークの求人はまったくなかったのである。
ハローワークには障害者向けの窓口があるので、求人情報サイトなどよりそういったことがスムーズだ。
這うように行く日もあるだろうと、通勤のしやすさが絶対条件だったため、職種は諦めるしかないかと考えていた。
そんな中、ある日職員から求人情報サイトにこんな求人があるけどどうかと急に勧められた。
他の利用者さんが見つけて応募しようかと考えてらっしゃるのだけど、私にも合うのではないかと。
それは今までなかった通勤が楽な製造業の求人だった。しかも募集人数も多い。ただし一般雇用だ。
面接に同行してもらうと、さすがにこいつ1人で面談にもこれないのに大丈夫か?と思われそうなので出来ない。
募集期限もすぐそこに迫っている。しかしこれを逃したらそれ以上は早々見つからないだろうと、思い切って応募し、面接を受けることとなった。
働くにあたって決めていたことがあった。
病気のことを一切話さずクローズでというのはまず無理だろうということ。
障害者手帳があるとは言わなくても、うつで長期間ブランクがありますと話して、受け入れてくれる環境でなければ続かないだろうと思っていた。
というか、病んだ人間をそれだけを理由に不採用にする会社なんかこっちから願い下げだ。
そして面接の日
履歴書にも病気のことを書き、それでブランクがあること、今は週に4日程度、朝イチからは働けないことを伝えた上で採用してもらった。ほぼその場で採用という感じだった。
なぜ採用されたかを振り返ってみる。
まず、精神疾患に偏見がなかったこと。そもそも正社員やフルタイムを特別求めていなかったこと。募集人数が多かったこと。
あとはそれなりに真面目に見えるとか、その仕事をする上でネックになりかねないこと(機械音が耐えられないとか)がなかったとか、そんな感じ。
つまりほぼ誰でも受かったと思う。
こうして再び就労することとなったのである。
続く。
次回は働き始めてからの仕事の感想や、どのようにしてフルタイムで勤務できるようになったかを書きたいと思います。