教室の中
不登校の生徒が、35万人をこえたというネット記事を読んだ。すべてがいじめが原因ではないかもしれないが、その大半がいじめであるだろうことはたやすく想像がつく。そしていじめについて思いを馳せるとき、わたしはある一人の少年を思い出す。どこでどうしているかもわからないが、わたしにとって、かけがえのない恩人の一人だ。
わたしは、小学生の頃からいじめにあっていた。髪は癖毛でうねり、それを黒のヘアゴムで2本にくくっただけのボサボサの頭をしていた。当時、何とかしようとハードタイプのヘアムースをつけてみたものの、表面はチリチリしたままで、みっともないことこの上なかっただろう。
見るからに鈍重そうな肉付きのいい体つきに眼鏡をかけ、厚ぼったいまぶたに一重の細い目に丸いだけの鼻。どう見ても美しさとは縁遠い少女は、たやすくいじめのターゲットになった。
高学年になるにつれてそれは酷くなり、あるときは石の的にされたことがある。あれは、清掃の時間だったのか、それとも放課後だったのか。校舎の裏庭に立たされて、そこから数メートル先を男子生徒達に取り囲まれた。当時、O君という男子生徒がいた。5年生のクラス替えで、初めて同じクラスになった生徒だった。体が大きく乱暴者で、わたし以外にも被害に遭っていた生徒はいた。そのO君が、中心になっていた。
かけ声とともに、男子生徒達は足元の石ころを拾うとわたしに向かって一斉に投げた。
「痛い」とか、「怖い」とか、何かしら感じたことはあったのだと思う。けれど、当時の記憶にはところどころ穴が空いていていて取り出すことができない。そして、わたしはまぶたの上を切った。
誰かが慌てて先生を呼びにいったのか、保健室に連れていかれたのか、それすら覚えていない。だが、母の話だと怪我をさせた男子生徒が親とともに家に謝罪に来たという。だが、わたしは謝られたことも、その男子生徒の名前も覚えていない。まるで、自分を傷つけるすべての記憶や現実から身を守るかのように。
中学校にあがると、いじめはますます残酷で陰湿なものとなった。クラスは近隣の小学校から生徒を振り分けられたはずだが、わたしはそこでもターゲットになった。
「デブ」「ブス」「キモい」「暗い」は日常茶飯事で、斑ごとに机を合わせて食べなければいけないはずの給食の時間も、わたしの机だけは引き離された。
校庭の清掃に行けば教室のベランダから大声で名前を呼ばれ、恐る恐る振り返るとドッと笑い声が起きた。「何だ、何だ」と人が集まり、他のクラスの生徒や他の学年の生徒達にも、その姿を見られた。さらに清掃の担当の場所に行けば、ごみ捨てを押しつけられ、そのごみ箱には到底一人では運べないほどの石の固まりを詰められた。
一人残されたわたしが途方に暮れていると、そこにジャージ姿の男性教師が通りかかり「どうしたんだ」と声をかけてきた。
男性教師はごみ箱の中身を見ると、「これは片付けておくから、教室に戻りなさい」とだけ口にした。わたしが何年何組の生徒で、誰にこんなことをされたのかと訊ねることもしなかった。
そして二年生になり、似たようなことが繰り返され、やがて三年生になった。そして、初めてクラスに友人ができた。同じ塾に通っていた女生徒が、偶然にも同じクラスになったのだ。決して目立つタイプではないが、おとなしく真面目で、何より人の悪口を言わない子だった。塾の中では、何度か話したこともある。
勇気を出して、クラス替えの後にその子に話しかけた。すると、あろうことかわたしを受け入れてくれたのだ。その子と仲の良かった女生徒二人が同じクラスにいて、 わたしもそのままグループの一員になれた。授業でペアを組まされたりグループを作るよう言われたとき、あぶれないことは中学生になってから初めてだった。
三年生ともなると、受験の内申点が気になるためかひどいいじめは起きなかった。何より、グループに入っていたことも大きかったと思う。たまに、以前同じクラスだった生徒達に何かを言われることはあった。
だが結局、その日々は訪れる。
当時流行ったのが、わたしが誰かを「好き」だという噂を流し、噂を流された男子生徒が嫌がるのを見て笑うという遊びがあった。わたしは長年のいじめと荒れた家庭環境により異性を怖く感じていたため、決して特定の男子生徒に恋愛感情を抱くことはなかったのだが、そんなことを周囲は知る由もない。
まず誰かがターゲットにされ、教室の中でその生徒を取り囲む。
「○○が、お前のこと好きなんだってさ」
すると、ターゲットにされた男子生徒が顔を真っ赤にし、「誰が、こんな奴!」とわたしを憎々しげに睨みつける。ここまでが、セットだ。どうやらわたしに傷ついた顔をしてほしかったのだろうが、わたしはぼんやりした表情を浮かべていた。長年のいじめと崩壊した家庭環境の中で、感情そのものがひどく薄くなっていたのだ。わたしの反応が鈍いことに、明らかに男子達は苛立っていた。
当時、何故かわたしが席替えのたびにある男子生徒の隣になるという不思議なことが起きていた。今でも覚えているが、確か連続で四〜五回は隣になっていたはずだ。N君といい、三年生で初めて同じクラスになった別の小学校から来た生徒だった。
成績が良く明るくて穏やかで、かといって自ら目立とうとはせず、クラスでも人気があったはずだが、目立つグループの子とではなく、大人しめな子達と誠実に言葉を選びながら話すような生徒だった。それに目をつけた先ほどの男子生徒達が、N君をターゲットにした。
またか、と思った。またわたしは集団の前で罵られ、その反応を楽しみに思う人たちのオモチャになるのだろう。男子生徒達が、N君にいつもの流れで言葉を放つ。そして、わたしに向かって嫌な笑いを向ける。この後、またわたしは言葉の刃を受けるのだろう。
けれど、その刃は振り下ろされなかった。N君は困ったように顔を赤らめたものの、男子生徒達にもわたしにも何も言わずに自分の席へと戻った。男子生徒達はつまらなさそうに去っていき、わたしは一人、信じられない思いの中にいた。
翌日からも、N君は普通に接してくれた。N君と仲の良い、男子生徒も同じだった。わたしは、混乱の中にいた。あそこで、わたしを罵ることもできたはずだ。けれど、N君はそれをしなかった。その理由がわかったのは、卒業式の日だ。
わたしは無事に第一志望の公立高校にも、第二志望の私立の女子校にも受かっていた。その公立高校は最寄り駅から二駅ほどで、近隣ではそこそこの進学校でもあるため、わたしの通う中学校から進む生徒は少ない。それも、選んだ理由の一つだった。
卒業式が終了すると、それぞれの教室へと戻り、担任の挨拶とともに卒業文集が配られる。パラパラとめくると、N君の書いた文章があった。自分の夢が、教師になることだということ。父方の実家のある、群馬県みなかみ町で教師になりたいということ。
あのとき、他の男子生徒達と一緒になってわたしを追いつめなかった理由が、このときわかった。「教師になりたい」という思いに、恥じない自分でありたかったのかもしれない。きっと、いい教師になる。そう、思った。
わたしは帰宅すると、二度と着ることのない制服を脱ぎ、私服になると一人泣いた。
感謝だとか、言えなかった「ありがとう」だとか、さまざまな思いが浮かんでは消えた。自分が窮地に立たされても誰かを攻撃せず、誰のことも悪く言わない。そんな人がいることが、この世に信じられる人がいることが、どれだけありがたかったかしれない。誰かを信じてもいいのだと、教えられた気がした。
その後入学した高校では友達もでき、クラブにも入り、楽しい高校一年生の日々を送ることができた。その日々は間違いなく、今でもわたしをあたためてくれる。
今でも、思い出す。もしあのとき、N君がいなかったらどうなっていただろう。その後さまざまなことがあり、ある理由で心療内科にこそ通っているものの、わたしは人生の時々で確かに人とつながることができたのだ。
人を好きになることも、誰かを信じて心を預けることもできるようになった。もし、あのときN君が、あの男子生徒達と同じようにいじめに加わっていたなら。わたしは、その後もずっと異性が怖いままだったかもしれない。
今でも人付き合いは苦手だが、人嫌いにも対人恐怖症にもならずに済んだのは、ときおり差し伸べられた誰かのあたたかな手や、「人を信じてもいいのだ」という思い、さまざまな人から受け取ってきた信頼のおかげであり、そのはじまりの場所にN君がいる。
今、どこでどうしているかもわからない。教師になったのかどうかも、仮に教師になれたとしてもそれを続けているのかもわからない。けど、どこでどうしていてもいい。ただどうか、幸せであってほしい。
だからどうか、今現在苦しくて学校に行けない子や、周りが遊び感覚であったとしても、本人にとっては地獄でしかない日々を送っている誰かに届いてほしい。
いつか、どこかで、必ず信じられる人に出会える。いる場所が変われば、人生が変わることもある。
「今、苦しいんだ」
そう叫びたい人も、きっといる。けれどわたしは、今日も明日もあさっても、教室の自分の机に向かわなければいけないつらさをよく知っているから。こうして生きてきた道の先で、「どうか、生きていてほしい」と伝えつづけるしかできない。
あの頃のわたしには、本があった。友人が一人もいなかった時期も、本のおかげで救われることができた。好きな小説でも漫画でも、アニメでもゲームでもアイドルでも何でもいい。どうか、好きなもので自分の心を守ってほしい。いいことも悪いことも、必ず終わる。いつかきっと、その場所を抜ける。
あの頃死にたかったかつての子どもから、「どうか、生きていてほしい」と、それだけを願って。