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”自分自身への評価”の基準が厳しい人は、”やる気”に依存する。やる気に自信は必要ない論


この記事は3年前に書いたブログ記事を転載しています。


やる気が出ないなというセリフは危険信号


今日は、とにかくやる気が出なかった。(これを書いた日、東京は雨だった。)


雨が降ると気圧の問題で、長年のお付き合いである偏頭痛が起こるため、もはや

定休日:雨の日

としてしまおうかと思うくらい、わたしは使えない人間となってしまう。


そんな時であっても、無情にもやらなければいけない仕事だとか、タイミング的にどうしてもやっておきたいことだとかは常に目の前にある。

それがビジネスであり、それが仕事であり、そんなのを選択しているのもまた自分だからこそ、別にそのこと自体に文句を言うつもりは、ない。


だが、どうしてもやっかいになってくるのが、

”やる気でないなー”という無意識のセリフ。


というか、”やる気”の有無によって自分の行動が制限されてしまう、という現象だ。誰もが一度は…いや、二度も三度も何度も思ったことがあるだろう。

”やる気さえあれば”と。

”やる気が買いたい”と。


♪何度でも何度でも何度でも立ち上がり呼ぶよ~♪

君の♪名前♪声が♪枯れるまで~♪


立ち上がって呼んだだけで”やる気が”来てくれたらどれだけ嬉しいか。


♪悔しくて苦しくてがんばってもどうしようもない時も~♪

君を♪思い♪出すよ~♪


うん、ほんと、そう。やる気が恋しくなるよ。

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やる気が出なくて、ごはんもめんどくさくて、

近頃話題のUberEats(宅配サービス)の一覧を眺めながら、この中に”やる気”の宅配があったらいいのに・・・と思って午後まできてしまった。


頭の中で、吉田美和(大ファン)の声がこだまする。

何度でも何度でも何度でも立ち上がり呼ぶよ~♪



やる気と自己評価の関係



さて、タイトルの通り、”自分自身への評価”の基準が厳しい人は、”やる気”に依存する。


なぜかといえば、自分自身への評価基準が厳しい人は、小さい行動に対する要求レベルが高いから。


評価基準が低い人は、布団から出ただけで「今日もすごい!布団から出られたわたしってすごい!」となるけれど、そうじゃない人は、自分のやることに対する要求レベルが高いので、ちょっとやそっとじゃ満足しない傾向にある。


それがなぜ、”やる気”と関係があるかといえば、こうだ。



そもそも”やる気”があるから、やるんじゃないし、できるんじゃない。

”やる”からこそ、やる気が出て来るから。


順番が逆なのである。

×やる気がある→やる
◎やる→やる気がでる


さらに細かく書くと、

やる

低レベルな評価をする

やる気が湧く

やる

低レベルな評価をする

やる気が湧く→以下、体力がなくなるまで続く


ということなのだ。


だから、そもそも「やる気を出せ!」的な説教は全くもって意味がない。それをいうくらいなら、やる気が無くてもいいからまずはこれ(小さいこと)をやれ!と言ったほうが良い。



しかし、ここで重要になってくるのが、先ほどみた一連の流れで出て来るこのフレーズ

『低レベルな評価』


て、て、てい低レベルな評価!?!?!?!?


なんや自己啓発やら上昇志向タイプやら、成功欲やらが強い人にとっては拒絶感があるかもしれないけれど、この低レベル評価というのを別の表現にすると、

自分をそんなにすごい人間だと思わない評価

でもある。


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これまた衝撃な事実。

自分をすごいやつだと思っていればいるほど、やる気に依存する。

どういうことなのかもう少し具体的に解説しよう。



自信は、溜まっていくポイントカードのよう。



自信があればなんでもできる、という謎の信仰を持つ人々がいる。

その信仰を持つ人々は、なんでも自信に紐つけて考えるから、

自信があれば・・・

これに対する自信があれば・・・

わたしには自信がないから・・・

多分、自信がないからだと・・・

と口にする。

けど、若輩者なりに27年間生きてきて思うのだけど、自信は役に立たないことが多い。


持っていても役に立たないポイントカードみたいな感じで、とりあえずお得だから作ったけれど、あまり使わない、的な感じで財布に溜まっていく。


自信が大切だ信仰の人は、とにかくいろんなことに対する自信を持ちたがる。

時にはそれを他人にまで押し付けて、自分のポイントカードをひけらかす。

あってもなくてもいいもの。

使わなければただの紙。

使えるお店限られていたりする。

お店の人の笑顔に逆らえなくて、いらないポイントカード作ってしまったこと、ないだろうか。それと同じ。


「自信を持とう」「自信持って」といわれて、逆らえなくて、いらない自信(特に使うことない )まで持て余している人が、非常に多い。


先ほどの”やる気”の話に戻るが、そもそも”やり出さないと”やる気は出ない、という脳の仕組みになっている。


だから、何よりも大事なのは”やりだす”ことであって、

やりだすために必要なのは、自信でもやる気でもなく

「ただやりだす」という、ちいさな動作だけなのである。


やる気に必要なのは、

自信でも自己肯定感でもなくて

「動作」だ。


そこで、自分は大したことのない人間なのだという前提でいると、やることなすことに対する評価基準が下がる。

評価基準が下がるので単純に、「動き」やすい。



すごい人間という前提でいれば、ちいさなことをしても”当たり前”でスルーされる。

どんなことをしても、求めるクオリティとレベルに達するまで小さいことたちは軽視され、

「もっとはやく」

「もっとすごいことを」

「もっとおおきなことを」

成し遂げたいと思ってしまうので、”やる気があれば”と、そこに依存する。



自分は大した人間じゃない、と思っていればどうだろう。

もともとすごいことなんてできないのだから、ちいさい行動は”当たり前”じゃなくなる。

おお、布団から出ることが今日もできた(きらりーん)のレベル。非常に低レベルなのだ。

コントロールできないものはハナから考えない。



ただ、自分は大したことのない人間なのだという前提を持つことと、

「自分には価値がない」「自分は愛されない」「自分は必要とされない」は、ごっちゃにしないように。その辺は関係ない。

なぜならそれは、他者が決めることだから。


ある人にとっては自分は非常に価値があるし、別の人にとっては自分は価値のない人間。

愛される時もあれば愛されない時もある。

必要とする人もいれば、全然必要としていない人もいる。

自分でコントロールできないし、決める必要もない。

”わたしは大したことのない人間なのだ”というのは、

つまり、

”自分がすごいかどうかは人が決めることだから、ま、いっかわざわざ決めなくても”

的な感じのニュアンスなのである。



やる気に依存しなくなれば、「とりあえず立ち上がるか」といって立ち上がった自分に「おお、立ち上がった」と思えることができる。

やる気があるからやる、やる気がでるからやる、のではなく

「やる気はないけれど、これくらいのことなら今できるかも」と

低レベルな視点で次の一歩を決めることができた時。



何度でも何度でも何度でも立ち上がらなくても、声を枯らして名前を呼ばなくても♪



やる気は意外とすぐそこにあるんだ、って気づくかもしれない。


(2017年執筆のブログより)



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秦由佳(はたゆか)
もし人生が無条件に自由で豊かだったら何をするかと言われたら書く、というくらい書くことが生きる上で欠かせない人間です。10年間の集大成を大放出します。サポートは全て執筆と研究活動に使わせて頂きます