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【曲紹介】We can go(鬼束ちひろ)

こんにちは!穂波です。
 
 一応音楽好きを標榜しているため、今日は好きな曲を紹介します。
これまでいろいろ聞いてきたんですが、もし一番好きな曲を挙げろという問いがあればきっとこの曲を答えます。

鬼束ちひろさんの「We can go」という曲です。

 鬼束ちひろさんの曲といえば皆さんは何を思い浮かべますか?
「月光」や「眩暈」が多いですかね。。。それらも当然素晴らしいのですが、、若干ナイーブになりすぎる感がある。。という方にはこの「We can go」をお勧めします。鬼束さんの曲の中では比較的ポジティブ、かつメロディーも軽快で大変聞きやすいと思います。

★1フレーズだけ紹介

 この曲は構成も歌詞も全部素晴らしいんですが、一つだけお気に入りのフレーズを紹介します。1番のサビ直前にある以下のフレーズです。

どうか完全なものたちが、そこら中に溢れないように

鬼束ちひろ「We can go」抜粋

 これ解釈が少し難しいですよね。ここでいう”完全なもの”とは一体何を指しているんでしょうか?完全なものが増えるって悪いことなんでしょうか?

〇私の解釈
 世の中にはたまに完璧人間みたいな人がいます。例えば、陽キャでいつも元気で頭がよくて異性にモテて気遣いができてノリがよくて社交的で…etc みたいな感じです(完全に偏見です)。
 もう少し真面目に表現すると、この一般社会という枠組み(スキーム)に対する適合度が非常に高い人たちのことです。(うらやましい~)

 彼ら(完全なもの)はどんなことでも無難にこなします。ときには弱い人間(不完全なもの)を気遣ったりだとか、そんなことですら器用にやってのけるのです。もはや敬服する他ありませんね。
 ただ。。。ですよ。私には何故か、彼らの言葉が時々、空虚(からっぽ)なものとして聞こえることがあります。
 ここで生じる疑問は一つです。世の中に仮に”完全”な存在がいるとして、それは”不完全”な存在のことを、果たしてどれだけ理解することができるのでしょうか。彼らの発す言葉はいつもピカピカ輝いていて美しいものです。ただし、そういう言葉が人を傷つけることも残念ながらあるのです。

 話が逸れましたね。要するに”完全”と”不完全”は、ときに全く相容れないことがあるということを理解する必要があります。完全な人が増えればそれだけ摩擦も増えるし、疲弊することにもつながる。損するのはいつも不完全な側の人間です。そんなイメージを表現しているフレーズなのかなと思いました。

 さて、長々と書いてきましたが、鬼束ちひろさんは他にも素晴らしい曲がたくさんあります。ここですべて紹介できないのは残念ですが、興味があればぜひ聞いてみてください。
 何らかの生き辛さを抱えている人。人生の深刻な問題に対して思い悩んでいる人。もがき苦しみながらそれでも立ち止まることすら許されない人。
そういう人たちが何かの拍子に躓いて倒れそうになったとき、すっと寄りかかれる支えのような、そんな温かさが鬼束さんの曲にはあります。
 是非この感覚を皆様と共有できたなら、この上なくうれしい限りです。
(また復活してくれないかな~。)

以上です。ご拝読ありがとうございました。

P.S. この曲はサビも伝説的にかっこいいです。

We can go to the place where we're forgiven
 (和訳:私たちは行ける。私たちが許される場所へ。)

耳を塞いでも叫び続けるから

We can go to the place where we get freedom
 (和訳:私たちは行ける。私たちが自由を得られる場所へ。)

羽を失くしても私は飛べるから

鬼束ちひろ「We can go」抜粋


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