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二人称の『死』をもって感じること。

皆さまこんにちは。

昨日夕方のツイートに加筆訂正を加えた文章を改めて『note』に投稿いたします。

ご一読のほどよろしくお願いいたします。

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坂本龍一さんの『訃報』をきっかけに、最近、鬼籍に入られた人を想い出しています。

去年は、安倍晋三元首相、アントニオ猪木さん、今年に入ってからも、鮎川誠さん、高橋幸宏さんを見送ったばかり。命あるものいつかはと理解しているとはいえ、多くの人に感動を与えてくれた人の死を耳にすると『悲嘆』にくれてしまいます。

個人的なことで恐縮ですが最も強い衝撃を受けた人の『死』は父親でした。晩年は病気がちだったとはいえ『急死で変死』となったため、父は警察での検死のため強制的に家を後にしました。その衝撃は大きかった。目まぐるしく展開する『悪夢の中』で『こと』が進んでいったように記憶しています。

それもあってか葬儀が済んでからの悲しみが大変深かった。夜、寝る前になると『喪失感』が一気に押し寄せ、止めどなく涙が出てくる。そんなことが1ヵ月ほど続きました。しかし、父の死をもって、誰でもいつかは必ず死ぬと『覚悟』が出来たのも事実です。

けどまだ死ぬのは怖い。

『死の受容』をあらわしたエリザベス・キュプラ―ロスは『人は命が永遠に続くものと思っている』からこそ、死を身近に感じず、忌み嫌い、自分の命が永遠に続くと思っている。なので、死に過度な恐怖を感じるとしています。私もそうなのでしょうね。


しかし、二人称の死をもって感じることは、やはりそれは『身近なもの』である、ということ。命は限りがあるからこそ輝ける。スポーツや芸術に美しさを感じるのは『命ある者の表現』だからではないでしょうか。

いま自分が生きている『この命』の奇跡を感じました。

最後にもうひとつ。大事な人を失った『喪失感』の悲しみから立ち直るには『普段と変わらぬ生活』を送ることです。そして友達からは『ご愁傷様です』と声を掛けられると救われる感じがしました。それで、私は父の死の『深い悲しみ』から立ち直ることが出来たと申し上げておきます。

この拙文が、皆さまの心に少しでも響けば、望外の幸せに思います。

本稿の締めくくりには坂本龍一さんのこの曲を。

『undercooled』

それではまたお目にかかりますね。

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