ここで書いていくこと
サムネイルはMichael StrevensのAll This Used To Be Fields。
何が書いてあるのか
このノートでは、暇な人がふらふらと本を読んだり、ご近所を散歩したり、はたまたイギリスにあるホグワーツ大学に遅まきながら入学してすったもんだする様子を書いていきます。
嘘です。本当はケンブリッジ大学です。お箸はしっかり持参して魔法大戦ごっこするけどね。
誰が、何のために書いているのか
これを書いているhtはとある分野の技術屋さんです。ハードかつ、コンピュータ寄りの科学分野であるためか、日ごろ周りにいる人の趣味も一貫してアニメ鑑賞やアイドル追っかけという感じ。片や、htの趣味は小説を読んだり、自然や寺社仏閣を楽しんだり、アンティーク鑑賞や街歩き、というところで、なかなか趣味を共有できる人が周りにいません(職場の外に出よとおっしゃらないでください、引きこもり体質なんです)。それなりに楽しく過ごしているのですが、何となく心の底に溜まりつづけて、行き場を失った澱のようなものを、王様の耳は驢馬の耳、とばかりに、書いて吐き出す場所を見つけたくってはじめたのでした。
私だけが気にすることであろう、と思いながらもあれやこれやを書き始めたのですが、そのおかげで同じ海外留学組の同志が見つかったり、はたまた芸術家であったり、料理人、小説家であるような、普段接点がない方々と交流が持てたりと、なんだか楽しくなってきました。そのうえ、ひとの書いたものを読むのも楽しいのです。ここには、ニッチすぎたり、粗削りで本としてはまとまっていないような、そしてそうであるからかえって特定の誰かの心の琴線には触れるような面白い記事が無数にあふれているのです。日々現状が更新されるライブ感もいいです。こんな場所があったのか、と目を開かされる思いです。本以外にもこれほど読むものがあったのか。
それと同時に、noteには多くの半匿名性のSNS同様、メディアとしての「性格」のようなものがあって、それが私の肌に妙に馴染むのです。ここで物を書いて、そして読むことは、どこかしら、デカメロンや百物語のように、「普通」の人がそれぞれ育てている物語を、居合わせた朋輩と語り合って、語り継いで一つのエコシステムを作っていくような、古来の人間のコミュニケーション方法の復権を見るようです。何か人間の本分の普遍性に触れたようで、心強いような気持にもなります。
大人になってからできる友達は、どうしても実利本位であったり、立場や経済感覚が似ている範囲に収まり勝ちであるものです。情報空間の泡沫の固有デザインの中であったとしても、外見やいる場所のような拘束条件をすっとばして、内面が似ていたり、相互に面白いと思えるような人とゆるやかに縁を繋いでいく、こういった仕組みはある種の救いのように感じます。忙殺されていることも多いので、あまり活発には執筆しないですが、フォローしている皆さんの記事を読んで回るのもひそかな楽しみです。
これからはしばらくイギリスにいるので、当地での学食(晩餐会というべき?)巡りや、お茶探し、日ごろの細々したことの記述が増えるかと思います。紅茶のティスティングにしか興味ないよ、という方、街巡りだけ読みたいよ、という方は適宜ふさわしいマガジンを立てていくので、そちらをフォローしていただけると幸いです。
これからしばらく書いていくのは、子どものころからずっと持っていた「どこかここではない場所へ行きたい」という離脱願望が実現されて、「どこか」が「ここ」になった先の日々のことです。これまでの憧憬や思い込みが払しょくされて、または裏打ちされて、または思いもかけない物事によって、どんなふうに私自身が変わっていくのか、将来展望はどうなっていくのか、自分でも不安ではあります。読み進めた小説のページにその日詰んだ花を挟み込むように、記録に残していければと思います。