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成人の日を前に

自分は今年で20歳を迎える。世の中には、なぜ「成人式」なるものがあるのだろう。なぜ「20歳」は特別扱いなのだろう。

20歳を成人として扱うならわしは、1945年以降の戦後法制に由来する。この法制度のもと、たとえば20歳以上の男女に選挙権が与えられるなど、多くの法分野で「20歳」が大きな区切りとされた。また、今や全国で執り行われている成人式は、1946年に埼玉県蕨市で開かれた「成年式」に起源があるという。「蕨町青年団が中心となり、次代を担う若者たちを勇気づけ、励まそう」としたのがきっかけだそうだ(蕨市HP)。

したがって、区切りとしての「20歳」は戦後にできたシンボルである。不安感や閉塞感が漂う敗戦直後の社会で、次世代を担う若者への期待はさぞ強かっただろう。人権思想に基づいて新しい法制度を作った先人にも、地域の新成人を祝い始めた先人たちにも、「20歳」に対する強い期待を感じる。当時の若者たちは、そうした期待を背負って戦後日本を作ってきたはずだ。

共同体の遺産や期待を「負う」のは「成人」の出発点なのかもしれない。コミュニタリアニズム(共同体主義)の考えでは、個人は、自分の家族や居住地、国家から様々な遺産や負債、期待などを受け継いでいる。私たちは、真空状態の世界に「負荷なき個人」として生まれ落ちるのではなく、すでに出来上がっている社会の物語に「途中から」参加することになる。自分が生まれた時にはすでに社会がある。誰しも、社会の物語に途中から参加し、また途中で退出する存在なのだ。


戦後日本を特徴づけるものの1つは、日本国憲法(1946年11月3日公布)であろう。日本国憲法97条は次のように述べる。

この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

私たちは憲法によって人権を保障されているが、それは過去を生きた先人たちの「努力」を通じて私たちに「信託」されたものである。これこそまさに、私たちが過去から受け継いだ遺産である。基本的人権が過去の人類から今を生きる私たちに「信託」されたものであるのと同じように、私たちは社会の制度や文脈を様々な形で過去から引き継ぎ、その恩恵を享受している。


したがって、「巨人の肩の上に立つ」という言葉に見られるように、自分自身の成功も過去から引き継いだ遺産の上でしか成り立たない。自分は、自分の生まれ落ちた社会から、数々の遺産を享受して生きている。そのことを忘れてはならないと思う。

加えて、個人は過去の社会から、遺産(プラス)だけでなく負債(マイナス)をも引き継いでいる。歴史は、生まれつき私たちに恩恵を与えてくれるが、同時に課題をも与えてくる。社会に途中から参加した身として、遺産(プラス)だけを引き継いで、負債(マイナス)を引き受けるのを拒むのは、公正な生き方とは言えないと思う。「社会の物語」は世代間の遺産と負債の授受で紡がれており、あらゆる個人はそのプラスもマイナスも受け継いでいるからだ。


私は、自分が生まれた社会の歴史と課題を「負う」気概を持ちたい。自分はたかが社会の物語に途中から参加して途中で退出する存在でしかない。それでも、過去の社会から与えられた遺産を享受して生きる一人の人間として、先人の築き上げた知を吸収し、自分なりに期待に応え、より良い形で社会に還元していきたいと思う。

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