自然状態においては、人の挙動は似通う

立志式を観るため、娘の通う中学校へ行ってきた。

立志式。
聞きなれない言葉だったのでなんだろうと思っていたところ、江戸時代の元服に相当する儀式だという説明があった。

自分が中学生の頃にこのような式を記憶はないが、10歳で行う2分の1成人式と同じように、現代の教育では割と一般的なイベントらしい。

生徒が一人づつ体育館の壇上に立ち、各々が選んだ座右の銘的な四字熟語の色紙を掲げて、将来に向けての目標を宣言する。約90人分の目標を1.5時間くらいかけてがっつりと聞かせてもらった。

宣言内容のおおよその傾向として、以下のような自分の現状を変えたいというものが多かった。

・やるべき事があるのに、つい楽な方に逃げてしまう
・無駄な一日を過ごしてしまい、分かってはいても繰り返してしまう
・継続することが苦手で、何かを始めてもいつも続かない

なかには現状以上にストイックになりたいと宣言するような子もいたが、その様な子はごく僅かなもので、それ他の大多数の子はだいたい先ほど挙げたものに集約されていたように思う。

目の前の課題に取り掛かるのが億劫で、そこから目を背けてつい楽な方へと流れてしまう。
それが良くない状態であると自覚はあるものの、ダラダラと無駄な時間を過ごしてしまい、気づけば長い月日が経過してしまっている。
そんな自分に嫌気がさしつつも、同じようにまた繰り返してしまう。

このような状態は中学生特有の傾向でもなんでもなく、大人であっても全く同じであると改めて感じた。

中学生の頃と比較すると、怠けたいという欲求を抑え込み、ある程度自分自身をコントロール出来るようにはなったけれど、よくよく考えてみるとこれは不自然な状態であるとも言える。

年齢を重ね、自らの経験や本などから得られた知識を生かし、思考習慣を矯正するようなことを繰り返しているうちに、そのような状態があたかも自然であるかのように振る舞うようになってくる。

けれど、言ってみればそれは本能に逆らっているような状態だ。

本能に忠実に従った状態、つまり自然状態であれば人はみな似通った挙動をとる傾向にある。
また幼ければ幼いほど、人は本能の赴くままに振る舞おうとする。
本能を抑えて自然状態ではなくなるほど、大人に近づいていると言えるのかもしれない。

さきほど述べた少数のストイックな生徒は、周囲からなにかしらの影響を受けた結果、他の同年代の子たちと比較して理性的な挙動を心掛けているのだろう。
培ってきた教養の差というものが、この辺りに効いてくるように感じた。

この教養の差が与える影響範囲というのは、年齢とともにより顕著になってくる。
親や先生に注意されるような外圧で本能を抑制していた場合、その抑止力が無くなった途端、抑えていた欲望を満たすことに歯止めが効かなくなる。
逆に、周囲からの影響があろうがなかろうが、自分を律した行動をとれる人もいる。

長きに渡る教養の格差はどんどん開き、年齢が増すにつれて個人間のばらつきはどんどん大きくなっていく。

自分のことを振り返ってみると、教養のない自然状態の典型例として、分かりやすいほど本能に従った人生を送ってきた。

子供の頃の感覚のまま大人になったと言えば、ある意味では聞こえが良いかもしれないが、自分の場合は良くない意味の方で、だ。

そんな自分に気付き、若い頃に身につけておくべきだった教養を、今更ながら取り戻そうとしている。

あの頃に戻って立志式をやるとしたら、自分はいったい何と宣言するのだろうか?





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