何かに取り組む際、目途をつけて計画立ててやる。その際、一番最初の見立てが間違っていると認められない人は、時間と労力のオーバーコストとなる。まず計画とはすぐその後修正の効かせられる柔軟な思考がセットで求められる事は当然だ。そこに意地やプライドといった不純物が事態を悪化させうる。
しかしながら、大卒は必要ないという事を多くの大卒者が述べるのは欺瞞だと強く感じる。学士の通用力はまだある。それに、大学の面白みは研究分野との接触である。自分でやれば出来るという指摘は些か無理があるのでは。キャンバスを渡して、自分の思う世界を書いて下さいという教育放棄は虚構だ。
広く大学で学べるのは秩序立てられた議論と学説で、大体昔学会で議論になった内容がその十年後に教科書に載せられると教わった。実は教科書は一昔前の議論を整理したものだと。教科書は最先端の理論までマークしてない。所謂金融政策の必要性についても、実はリフレーションも未だ未掲載なのだ。