日本では障害のある子を「Dependent(誰かに頼らなければいけない子)」としがちじゃないかな でもね【できる面】から見方を変えれば、障害のある子はもっと「Independent(他者に頼らなくてもできる・自分の意志で生き方の選択やヘルプを求める事ができる子)」になれると思う
掃除してたら息子が2年生の頃の学校のプリントがでてきた。 「季節はなぜあるのでしょうか?」の問いへの息子の答え。 【春が好きな人も夏が好きな人も秋が好きな人も冬が好きな人も、みんな1年に一回嬉しい時が来るようにです】 こういう息子の感性、好き♪
自己肯定感の低い子に自分の得意な事を教えてってきくと「あれもできないこれもできない…だから私はダメなんだ」と落ち込みだす。 そんな子に「得意な事は苦手な事で打ち消されないよ。得意は得意。苦手とは別物。得意には自信持ったらいいんだよ」で少し笑顔になってくれた♪
「正しさ」を武器に相手を追いやっても本当に伝えたい「正しさ」は伝わらない。ヒートアップした議論は「相手に本来伝えたかった事を伝える事」よりも「相手を打ち負かす」&「負けてないぞ」の構造を作っちゃう。 「正しさ」を武器にしちゃいけない。「伝えたい気持ち」を大切にしたい。
遊びに行きたいなぁ 学校いきたいなぁ 友達にあいたいなぁ っていう子に 「みんな我慢してるんだから」「それは無理」と諭すより 「そうなんだね、〇〇したいんだね」ってまず気持ちをうけとめてあげてほしい。自分の気持ちをことばにしていい安心感って大切だから。
英語では障害のある人をPerson with autismのように表します。「人」がまずありきで、その人に「障害」が伴ってる。だから「自閉症のA君」じゃなく、「A君っていう子に、自閉症がどういう影響を与えてるのかな」というのが、本来の障害のある人の姿だと思うし、関わり方だと思う。
自信を無くす機会が多い障害のある子に、スモールステップの取り組みで自己効力感を得る働きかけって大切。 例えばいきなりマラソン完走って目標は「僕はだめだー」と挫折を導く。 でもまず1㎞、それが達成できれば2㎞…そうすれば、目標を達成できた事で自分の「できる!」につながるんだよね!
自閉症のこだわりって、大切にしたい事の優先順位が独特なだけなんだよね。 寒くても半袖にこだわる子、同じ道にこだわる子。自分が大切に思う事を大事にするその気持ちは尊重してあげたい。 だから禁止じゃなく「他にこんなこと大切にするってどうかな?」って提案して世界を広げてあげたいな。
「発達障害の子とどう関わっていいかわからないから困ってる」とこぼす人は多いけど、本当に困ってるのはどう関わっていいのかわからない子供自身なんだよね。 だからまず『この子はなぜ困っているのか』を理解しようと心がけ、関わり方をそこから知ることから始めてみてほしいなぁ~って思います。
最善を尽くした結果が、いつも「最善」だとは限らない。なのに「最善」じゃない結果だけをみて落胆する人は多いと思う。 でもね、「最善を尽くした」と胸を張れるその経験が、本当の意味でその人にとって「最善」なんじゃないかな。結果だけが自分の人生に意義を与えてくれる訳じゃないはずだよね。
療育のゴールを「自立」に置く人は多いと思う。でも「障害があったら無理…」と諦める人も多いよね。 でもね、自立って働いて自分で生活するだけじゃないはず。 障害があって「とりあえず生かされてる」人生じゃなく「自分の人生を自分の意志で生きられる」っていうのも自立じゃないかなって思う。
「頑張る」には「心や体を労りながら」というのはつきものなんだと思う。 なのに心身共にボロボロになりながら結果をだした人は認められ、心身が持たず途中で挫折し結果を出せなかった人は蔑まれる。 おまけに心や体を労りながら結果を出した人は「まだ余裕が有るね」と限界を求められる不思議。
自閉症の子の中には「感情」と「感情表出」がうまく結びつかない子や、感情表現が難しい子がいます。それによって彼らは誤解を招きやすいし、その誤解がコミュニケーションの構築に障害をもたらしたり、彼らの自尊心を傷つける事があります。 社会に理解を求めたい困難の一つだな~って思います。
発達障害のある子達は特異な感覚を持つ子が多く、その特異性がゆえに疲れやすい子が多い。 なのにその疲れを感じるのが難しくて、限界まで頑張ってしまい、ダウンしちゃうってことが多いんだよね…。 だから「体を休める事の大切さ」「休憩を予定の中に入れる習慣」を教えてあげたいなって思う。
本人の努力や頑張りではどうにもこうにも出来ない事があるのが「障害」なのに、発達障害のある人に対しては特に「どうにかできないあなたが悪い」というのがまだまかり通ってるのは悲しいな。 「ちょっと頑張ってみようかな」って思えるスタートラインにたどり着く為の支援がまず大切なんだけどな。
大人の「どんな風に育てたいのか」よりも、子供の「どんな風に育ちたいのか」を大切にしたいなって思う。子供に障害があったら「子供がどんな風になりたいと思ってるか」が置き去りになりがちだけど、この子達も「やりたい」という自我や好みがある。そこを大切にフォローしていけたらいいなって思う。
「辛い…」って告白は「そんなに辛ければやめれば?」と同意を求めてる場合もあると思うけど、 『そんなに頑張ってるんだね』って頑張りを認めてほしい時もあると思うんだよね。 「あなたよりもっと私の方が辛いんだしそれくらい…」って言う人なんかもきっと頑張りを認めて貰いたいんだろうな。
コミュニケーションのキャッチボール。 障害のある子には「周囲から投げてこられた球をいかにうまく取るか」というスキル獲得に一生懸命になる前に 「この子達に取りやすい球はどんなかな?」という様な、周囲に適応させようとするよりも周囲が適応して楽しみをまず教えてあげてほしいなって思う
スタントの存在を知った息子。大好きなタレントさんがどんなスポーツや危険な事も出来るのを凄い!と憧れてたから、スタントの事を知った時はがっかりしてた。 でも「不得な事は得意な人に手伝ってもらえばいいんだよね!僕もそうだもんね」と言う息子の言葉にハッとした。発達障害の子の生きる術!
「もう子供じゃないんだから…」という言葉をかけられ困惑する事が発達障害の人には多い。 発達障害は、認知、言語、情緒、社会性、感覚、運動面の発達が凸凹な障害。その凸凹さ故に生きにくさがある。 でも一番発達障害の人を生きにくくしてるのは、見た目と内面の発達の成長の凸凹なんだろうな
障害のある人への特別な配慮を求めると、他の人が不便になるから、と断られる事があるんだよね。 障害のある人が配慮がない事で与えられる不利は、障害がない人が感じる不便よりも軽視されがち…。 誰かの不利益の上に成り立っている満足。そういう事がおかしい事に多くの人が気づいて欲しいな。
自分が知らないという事を知ってる「無知の知」は、障害等の理解には欠かせないと思う。 でも障害のある人への哀れみを「理解」と勘違いしてる人は、彼らを傷つけても「そんなつもりじゃなかった…」と自分を庇う。 でもそんなつもりがあろうとなかろうと、障害のある人達は傷ついてるんだよね…
誰かの事を理解できないと思う時って無意識に相手を上から見ていがち。 【理解】は英語でUnder(下)stand(立つ)。 つまり相手を理解するには下に立つ必要があるんだよね。子供と接する時、子供の視線の下から子供を見ると発見が多いみたいに、普段もこの姿勢を意識していきたいな。
外見で障害が分かり辛い発達障害の子の親は 子供が良い状態の時は「障害だなんて考え過ぎ」と気にかけ過ぎな親扱い 状態が悪い時は「わが子の事なんだから何とかしたら」と咎められ 最悪の時は「気の毒に…」と遠巻きにされちゃうんだよね。 親子共々、周囲の理解が生きやすさの鍵なんですよ~
「やる気がない」と叱責されるのは発達障害やグレーゾーンの人がよく経験する事。 そもそも「やる気がない」というのは『出来るのにやらない』訳だけど、彼らはやりたくてもやり方がわからない/やり方が他の人と違うから【やれない】わけで、気持ちの問題じゃないんだよね。必要なのは方法の提示。
アスペルガーの人の多くは「時間ある時にやっておいて」といった曖昧な指示に従うのは難しいけど、明確な期限を伝えれば仕事は行える。 でも一方で、他の事との優先順位が立てられなくなったり、間に合わせる事に必死になり自分を見失うような副作用的な事も同時に起こり得る事も知って貰いたいな。
支援って、 「できない事を手伝ってあげ、その場の達成感を得る為の支援」と、 「できなかった事を自分でできるように導びく、未来の長期的な達成感を得る為の支援」 があると思う。 だから、できない理由を発達障害に求めるんじゃなく、出来る方法を発達障害のある子の中に見出してほしいな。
「我慢」が美徳とされる日本では我慢せず行動する人に不平を言う人が多いけど、その心の奥底に「羨ましい」が見え隠れする。 アスペルガーの人の場の雰囲気を考慮しない言動や、ADHDの人の思った事をすぐ口にする事を「おかしい」って言う人が多いけど、結局の所「羨ましい」もあるんだろうな…
大人になって発達障害の診断を得た人のきっかけは、二次障害の辛さが多いんだろうな。 発達障害は生まれながらの脳の多様性の一つだけど、二次障害は無知や差別等の周りの環境によってひきおこされる。 発達障害はうまく付き合っていくもの、二次障害は防ぐもの。その為に理解が必要なんだよね。
Golden Rule「他の人から”こんな風にして貰えたら自分は嬉しいだろうな”という行動を他の人に対してしましょう」 Platinum Rule「その人が”こうしてほしいな”と望むであろうやり方でその人に接しましょう」 発達障害の子達への支援に理想的なのは後者なんだろうな~
障害のある人への配慮を「ずるい、不公平だ」と言う人がいるけど、障害のある人の困難を配慮で補って初めて【公平】になるんだよね。 障害のある人に配慮する事が障害のない人に「不公平」をもたらすんじゃなく、 配慮がない事こそが障害のある人にとって「不公平」だってこと、知ってほしいな。
What’s fair is not that everyone gets everything equally, but that everyone gets what everyone needs. 皆が同じ物を同じだけ得る事でなく、必要としている事が行き届く。それが公平
障害のある人は、障害を通してその人を見られちゃう事が多い。例えば息子の場合「アスペルガーのチャビ君」の様に。でも本当は、その人を通して障害を見てほしいなって思う。だって同じ障害があってもみんな違う人なんだしね。特に発達障害の場合はそうしてほしいな。障害ゆえの困難が千差万別だから。
【自閉症の人の”見えないものは存在しない”の世界】 棒グラフで数値が大きくなると途中に波線をひいて省略するよね。でも息子は、どうしても省略の「空間」が納得できない様子。なぜそうするのかは理解してるんだけど、見えないものを無理矢理「ある」と仮定するのは、心がざわつくんだろうな…。
宿題を忘れたら「どうしてやらなかったの!」と叱るより 「どうしたの?具合悪かった?家族に何かあったの?今時間欲しい?」と宿題をしなかった事を責めるんじゃなく、宿題をできなかったその子を案じ、そしてチャンスを与える方がいいよね。 子供が伸びる関わりってこういうことじゃないかな。
「◯さんは障害があるからやらなくていいよ」を優しさだと思ってる人って多い。でも違うと思うんだよね。 障害のある人が社会参加できる方法を考え、その人が独自の方法で皆と同じ場に一緒に参加出きる事が本当の優しさや理解だと思う。 障害のある人の存在意義の場が皆と同じであってほしいな。
障害のある人とない人の間には「格差」があるんだよね。 たまに障害を「個性」って言う人がいるけど、障害ってね、「格差」がなくなって初めて「個性」になるんだと思うんだよね。 障害があって大変な思いをしてるのを「個性」って言葉で片づけられても、障害のある人は納得できないんだよね…。
自閉症の子を育ててる親子の姿を傍から見ると、子育てがうまくいってない様に見える事が多いと思う。でもね、それは子供への愛情がなかったり手抜きをしてるからじゃなく「自閉症」という障害に対し親も子ももがき苦しんでる姿なんだよね。 親子が分かり合いたいからこその姿だって知ってほしいな。
なぜ日本は障害のある人にとって生きにくい社会なのかって話をアメリカの友人とした時 「私は以前、誰かに席を譲ったり困ってる人に声をかけるのに少し気恥ずかしさを感じて何も出来ずにいた」と話すと 「何もしない事の方が恥ずかしい事じゃない?」と言われたその言葉がズシンと心に残ってる。
物事の捉え方や考え方といった認知の仕方は人それぞれ違うので、得意な学習方法も「視覚型・聴覚型・運動型」と様々。 差がない人もいるけど、特に発達障害のある子は、顕著に得意/不得意が表れやすいので、得意な学習方法を有効に使うのは大切! https://note.mu/chubby_haha/n/nd88642f77af3
「もう夏休み終わっちゃう…学校に行きたくないな」 に「誰だって行きたくないけど我慢して行ってるんだよ」って返す人へ。 きっとこの子達は「そうなんだ。辛いんだね」って言葉を求めてるはず。 せめて苦しい胸の内を伝えてくれたことを否定せず「きけてよかった」って伝えてあげてほしいな。
発達障害の理解がなかなか進まない一因として 「発達障害のある本人が自分の困ってる事を相手にうまく伝えるのが難しい」という障害の特性があると思うんです。 だからこそ発達障害について知らない人にもっと知って貰えたらなぁと発達障害の子の親として思うんですよね。よろしくお願いします!
発達障害を未だにしつけのせいだと思ってる人がいますよね。でもそれは誤解で、発達障害の子の親は少しでも油断しようものなら大惨事になりかねないから手抜きなんてできないんですよ。 だから発達障害の子のお母さんでうつ病を患ってる人も多く、周囲の理解やレスパイトの充実が必要なんですよね。
自閉症の「こだわり」 息子は拘りを『僕が凄く大切にしてる事』って言う。 本来「拘り」には「些細な事にとらわれる」と『些細な点にまで気を配ってる』という捉え方の違いがあって、 自閉症の拘りを周囲の人は前者だと思いがちだけど、後者の捉え方をした方がプラスに働くと思うんだよね。
「周囲を困らせる人→発達障害かも」という考え方は怖いよね。 だってこの発想からの支援は「周囲を困らせないようにする為」になりがちで、発達障害自体を否定する関わりになりかねないよね。 そうじゃなく「発達障害の人が困らないようにどうしたらいいのか」って関わりであってほしいな。
息子は人に何か良い事が起きた時「いいな~」「羨ましい」でなく「よかったね」って言うんだよね。 「いいな」だと「でも自分は…」って自己否定に繋がりやすいけど「よかったね」だと自分もハッピーになれるよね♪ 自分の幸福度を他人と比べる事じゃなく自分の中で見いだせるって素敵だと思う。
アメリカに越してきて、大学で特別支援教育について学び始めた頃に知った大好きで大切にしていることば。 【私達の教え方でうまくいかない子供には、その子の学び方で教えなさい】 障害のあるなしに関わらず、 大人・子供に関わらず、 学校・職場に関わらず、 みんなに大切なことだよね。
自閉症の人の多くは、臨機応変に場の状況に応じて行動するのが苦手な人が多いんですよね。 でも「臨機応変」は難しくても、ケースA、ケースB…という風に新しい経験を増やしていく事であたかも「臨機応変に対応しているように行動できる」様になったりもします。生き方がちょっと違うんですよね。
自閉症の人のこだわりは、過去に大丈夫だった経験を繰り返す事によって安心を得る行動だから、こだわりが崩されると不安が押し寄せパニックになるんだよね。 だからこだわりの緩和に必要なのは「安心」と感じられる新しい経験。 偏食改善にも「なんとか食べさせる」でなく「安心」の経験が大切。