わたしに 価値があるのは 踏み台のときだけ
一条ゆかり先生の、そして当時、少女まんがを描いていた女性達の大変さが「やっと」詳らかになり、私は溜飲が下がる思い。 いま放映されている「100分de名著」林芙美子さんについて知る度に、私は一条先生のエッセイ漫画を思い出していた。とても似ているのだ。他の先生方も本当に大変だった。。
私は…やはり…Smileは必要だと思う。それを無理に声や表情に出さなくとも。ユーモアとは…何よりまず自分の内側から処方箋として用意されているものだと感じている。勿論、何かの引き換えに「笑い」があってはいけないと思っている。 卑屈さや駆け引きではない笑いがある。島に育まれた宝物だ。
こどもをぞんざいに扱うとその子はアーティストになる。 支配したつもりでもその所業は後に作品となり報復される。(生前だろうと死後だろうと。) 時の権力がアーティストを冷遇しても、人が人を冷遇し続ける限り、芸術は無くならない。
「男だって生きづらいんだ」と気づけた事で、一方で同じようにつらいと悩み続けている女性たちと、少しでも生きやすい方法をつくりだす事こそ、最も身近な「弁証法」なのではないだろうか。 その為にまず対話がある。自らの問題を見つめ、相手の苦しみを想像し受け止める土壌を、根気強く耕し続ける。
https://note.com/imogine_note/n/n1b1a2dd30731 ↑先日つぷやいたことは日頃考えていることなのだけれど、自分のやってきたsmileへの姿勢はこの本の言わんとしている《ケアの倫理》だったのだな…と涙してしまった…(小川公代さん『世界文学をケアで読み解く』。特に「あとがきにかえて」の所)
負の連鎖を自分のところで止めてる人は、そのぶん見えない内側が蝕まれ続けているんだよ…(そこからもがこうと必死なんだ…)
宮沢賢治が 『春と修羅』 という言葉を遺してくれたから 私は「此処にいてもいいんだ」 「生きてていいのだ」 と思える。葛藤したまま生きる。
考えてみれば「軟弱地盤」なんじゃない。何かの障害のように連呼したくない。元々そこが「柔らかくある理由」があるはずなんだ。自然の摂理として。そこに人間が勝手に夥しい杭を打ち込み、光と風を遮り、覆い固め、静かな時間を奪う。島を生かしてきた内臓と保水と皮膚と新陳代謝機能が病んでしまう。
「常に泥臭く何か訴えてるのが本物のうちなーんちゅだ(私みたいな)どっちつかずに見える者には興味ない」…そう、私は偽物に見えるのだろう。でも私は同化政策後の沖縄人だ。強力に年を経た「名誉白人」の大和版だ。アイデンティティを揺さぶられ生きてきた。私を受け入れられるか。私も。あなたも。
先日「負の連鎖を自分の所で止めてる人は、そのぶん見えない内側が蝕まれ続けている」と呟いた。その「止めてる人」は、なかなか人に悩みを打ち明けられない。そんな人の想いのはけ口は何だろう?そう考えていて…それは“文学”なのでは?と思った。読(詠)んだり綴ったり。…なんと切ない事だろう…
さみしいなあ。私は少ない。持ってるものが。/いや充分ではないか。何を贅沢なことを。/(沢山持ってると管理しきれなくて不安になる、だから制限してるのに)/(でも少ないものに頼り切ってるのがわかるから)/おちついて/力いっぱいな蝉の静けさに身を委ねよう/好きな本の中に入ろう寂しさは友
私に夢があるように、この島々もきっと夢見ているだろう。からだに刺さり埋む武器を1つ残らず摘出し、身を挺し包み守っている亡き人々の血肉・骨々を待つ人の元へ。金網は祓われ塞がれた土と水を澄んだ空気へ解放したい。清々しい我が皮膚の上を人々が子どもたちと手を繋ぎ歩く幸せ…夢見てるはずだ。
追いかけているうちは追いつけない。それはそうだよね。。追いついたとしても。追い越したつもりでも。相手の眼中にないなら、併走する日は来ない。…だから、いずれ立ち止まる日が来るのだろう。。