膨大な血脈など、たどる術もなく、もしあったとしても、それの確かさもわからない。狭い記憶の血脈よりも、血、よりも、そこに生きる人、受け入れてきた人を含めた土地の風土、「地」が、自分の先祖なんだと思ってる。有り難う、って手を合わせてきた。
なぜか早朝、播磨の小京都・龍野にいる。目的地ではなかったのだが、立派な観光地だった。こんな所にも牧野博士。牧野博士は全国の植物を愛でたから、きっと今年はどこもこんな感じなんだろう。京都の他小京都という場所に行ったことがなかったのだが、なるほど立派な小京都だ。