《ちょとだけ顔を出すーー言葉が降りてきたもので。》 #かのこメモ ものごとは、突然ふって沸いてくるのではない。必ずや、ソコに至るまでの「プロセス」があるはずだ。その過程に目を向けずして結果ばかり見ていると、本質を見失う、ということもある。
#かのこメモ 不幸なのだが幸せな気もするし、不幸なのか幸せなのかさっぱりわからない。 分かっているのは、かろうじて生きていることだけ。
#かのこメモ (急に言葉が降りてきた。ひとことだけ記録) 過剰な繊細さは、時に、人に対して失礼無礼を起こす。 厄介なのは、そのことについて本人が気づいていないことである。 う〜にゅ。お眠り前に言葉が降りてきたの、いつぶりくらいかしら?ぶり。 ではでは。お休みサマンサ♡
#かのこメモ 「それ」を必要としてる人は、誰だろう。 自分が必要としてるのか。あるいは、誰か(例:A)が必要としてるのか。 誰か(A)が必要としているというのなら、それはどのようにしてわかるのか。 自分が必要としていることをぼかし、誰かを利用して穴埋めしようとしていないか。
#かのこメモ 喜びと苦しみが入れ替わり。きっとそれは、大きな変化の前兆。決して蓋して流して消さないようにすること。 抱えきれないことは、自分にとって受容的な人・場に助けてもらうこと。入り浸りはノンノン。時間を決めて、距離をとって、助けてもらうこと。それが出来たら力になる。
#かのこメモ 身体を“つかう”ことができるようになると、不思議なくらい視点や観点が拡がる。 ここでの「身体をつかう」とは、単に運動することでは無く、自身を構成する肉体の望みや苦痛を聴き、知り、意識と対話させること。日常で考えてたことが、身体の声と相反すること多し。驚きの連続。
#かのこメモ 身近な人が苦しんでたの。そゆときは、「そうだよね」つって、そのまま受けとめる。隣にそっと寄り添えることができたら十分。一緒に感じることができたら充分。それしかできないと思うの。わたしは、わたしの視点でしか観れないから。どんなに予想しても、それはわたしの予想だから。
#かのこメモ さっき、ふと気づいた。「期待」と「目的」は違う。ような気がする。 「期待」は情動的。「目的」は理性的。自分の内側に在る「期待」を受け入れられると、「目的」に近づく。つまり「期待」というのは自分に向けるもの、のような気がしてきた。 さて。わたしの「期待」はなんだ。
#かのこメモ タイムラインはベルトコンベア
#かのこメモ 「甘える」と「甘やかし」の違いについて。 甘えることは、力づけ・自尊・自立につながるが、 甘やかしは、力や自尊心を奪う・癒着を助長する。 甘え(助ける・助けを得る)は、自他の信頼を育む。 甘やかし(病理的依存・世話焼き)は、自他の信頼を潰す。 続くーー
【 #かのこメモ 】 「良質な大人が段々と遠のいてゆくのが哀しい。そして、残された私は、いや、自ら残っているのだけれども、さらに辛抱を要するのである。ああ、辛抱の我が人生よ。辛さを抱いて今日もゆく。」
#かのこメモ だいぶ前から何度もオープンに記述したりしてきてるのだが、何年たってもピン♪とくる解説をしてる人に巡り会えない。で、今またフッと思い出したので、メモ。 「感じる」ということと、「考える」ことは、違うものです。多くの人は「考える」ばかり用いるが、「感じる」こと無しに
#かのこメモ 劇的だったり驚愕的だったりなモノ・コト・ヒト…ばかりに関心が向いて関わりを持とうとするのは、自分の人生脚本がつまらないから。自らの意思で築いている日々が面白いものならば、“お涙ちょうだい” や “わたしを虐めて” やナンヤカンヤの小騒ぎがなくても充実ちゅうもので…