野球部3軍キャプテン背番号10の哀しみ
小学生時代を過ごした昭和末期はJリーグ前夜の時期でもあり、スポーツといえば野球だった。類に漏れず野球にはまった私は、5年生から小学校の野球チームに入団した。
だがチームメイトは3年生や4年生から続けていた子が殆どで、私は自覚できるほどに明らかに劣っていた。
センスがなかったのもある。まず打てない。ゴロはよくトンネルする。フライもうまく捕球できない。監督に怒られながら後逸した球を花壇まで走って取りにいくのは実に惨めだった。
試合中に相手チームの監督が「あいつを狙え」とばかりにファーストで守備中の私を指差したことがあった。下手がバレたのである。
すると打球が本当にこっちに向かってバウンドしながら飛んできた。来たら絶対捕ると構えていたのに見事に後逸した。
今でもそのシーンは、相手のユニフォームの色まではっきり覚えている。
時々チーム編成が変わった。6年生になると同級生は皆1軍か2軍に入ったが、私は6年生で唯一の3軍となった。3軍では最年長なのでキャプテンということになり、背番号はキャプテン番号とされていた10番をもらった。
それまでの背番号の中では一番小さい番号(それがステイタスと思っていた)だったが、誇らしくも情けない気分だった。何がキャプテンだ、学年唯一の3軍じゃないかと。人生最初の明確な挫折だったと思う。
指導陣もきっと悩んでくれたのだろう。「走水君(私のこと)は1軍、2軍やったら出番あらへんわな。3軍にしたげたら試合出られるやろ」と。しかしそう自力で理解することは当時11歳の私には不可能だった。また誰も教えてはくれなかった。
私の好きな古い野球漫画に『キャプテン』(ちばあきお作)という名作がある。
名門の青葉学院中から弱小の墨谷二中に転校した中2の谷口タカオ君は転校前、2軍の補欠だった。だが青葉学院から来たというだけでレギュラーだったと買い被られた彼は、人知れずえげつない練習を続け素晴らしい選手となり、弱小墨谷を全国レベルにまで引き上げるのである。
私は谷口君ほどの練習をしていない(そもそもあのレベルは不可能だけど)。素振りをし、壁に向かってひたすら軟球を投げ続けただけだ。仕方ない結果だったといえる。
中学に進学しチームメイトの多くが野球部に入る中、私は陸上競技部を選んだ。野球を強く憎んでいた。野球にとっては逆恨みもいいところだっただろう。野球部の打球を避けながらグラウンドの隅をひたすら走った。体力全部をぶつける陸上競技の世界が自分には合っていたようだ。陸上競技は大学まで続けた。
休日に少年野球の練習を見かけることがある。小さな身体の全身でボールを追っかけている。
しかし中にはあの頃の自分のように劣等感を持ちながら頑張る子もいるだろう。
「うまくいかんこともある。悔しかったら泣き。もっと悔しかったら陸上でも何でもやってみ。」
…などと、かつての3軍キャプテン背番号10に言われても響かないだろうが、心の中で勝手にそう思っている。(零)