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「表現」の構造

 会社の同僚と話をすると「自分に負荷をかけて、仕事をすることで認めてもらう」という意味合いの言葉が出てくる。このことは自分としてはどうもうまく繋がらない。そしてこの同僚は「自分を表現する」という言葉でその話を締めくくった。

 ここで言う「負荷」とはおそらく精神的負荷や行動的負荷といったもので、あえて自身で考えたペナルティを自身に科すという意味であろうが、それを行うことで認められれば苦労はないわけで、「負荷」というのであれば、ある程度の仕事の中での負荷はサラリーマンならつきものだろうし、「ペナルティを自分に科してやってる俺」をアピールすることで、子供の部活動じゃないんだから果たして認められるのか、と思ってしまう。アピールということについて考えるならば、まぁ確かにその姿を仮に見る人が見ていたら印象には残るのかもしれない。

 また、同僚は「自分を表現する」と言っていたが、ここでの「表現」という言葉が示しているのは自分の考えや目的を理解してもらうために、たとえ過剰であったとしても、それに見合った行動を取る、ということだろう。

 そう考えると「負荷」を科している自身を「アピール」して誰かに見てもらう、ということは、自身の目的や、プライドといった「自身の思想」および人材という点で、その「存在自体」を主張するということになるのだろう。


 同僚はおそらく真意があって「表現する」という言葉を使ったわけではないだろうが、このことは芸術の場以外で「表現」というものが成り立つことを示している。

 20世紀の表現概念において、ドイツの哲学者テオドール・アドルノは「もっとも主観的なものが客観性に媒介されて経験されたもの」として「表現」というものを捉えている。これは「表現」と呼ばれる様々な種類の芸術や行動について最も的確に、その構造を示し、定義づけする言葉であろう。

 明確に指し示すことのできない抽象的な主観性を、その本質を失わせることなく、客観的な造形物、言葉、その他誰でも感知できる具体物として提示する。この主観性と客観性の狭間で、抽象的なものの具体化こそが「表現」というものの本質であるのだろう。

 翻ってこのことは、目に見えない抽象的なものは具体化されなければ、客観性を持たず、その主観性の本質は自身以外の人間には認知されないことを意味する。

 主観的である「思想」を客観的な「行動」に置き換えて提示するという「表現」は、普段は特に意識していないが、日常的に我々は行っているのだ。ただ、それが日常の片隅にありすぎて「作品」になっていないから、印象に残らないだけなのだ。

 理由はどうであれ、ある主観を困難な状況であっても、客観性を持って打ち出すべきだとする衝動があるのなら、その客観性は日常生活において他者の印象に残るまさに「作品」のようになり、そこに至るまで自身を突き動かした衝動をきっと「情熱」と呼ぶのだろう。

 

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