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【橋本浪漫飛行】橋本と遊郭②-旧橋本遊郭


津田電線

当時の津田電線合名会社八幡工場

橋本にはかつて津田電線の工場があった。

大正元年(1912年)に津田電線合名会社八幡工場が操業を開始した。当時は従業員132人(男23名、女109名)、昭和34年には200人を超えた。

工場は、朝の七時半から夜の七時半まで運転され、就労年間335日、一日12時間というフル操業であった。
昭和33年(1958年)までの46年間、存在した。

津田電線工場跡地
踏切に名残が残る

大谷川

橋本遊廓の裏には大谷川という小さな川が流れている。
昔は綺麗な川で泳いで遊べたそうな。大谷川に架かる「栄橋」があり、
この橋の前に渡し船の道しるべが設置されている。渡し船の利用客は、この橋を渡って船乗り場へ行った。
昔は「栄橋」の少し先に「小金川橋」があった。これは渡し船で訪れた石清水八幡宮の参拝客が、遊廓の通り抜けを避けるために造られた橋である。現在は橋の柱だけ残っている。

大谷川からみた旧橋本遊廓
小金川橋の名残
大谷川側の戸
多津美旅館の裏側

開拓

売春防止法が実施されてからの橋本は、下宿町として営業再開し、大学生などが利用していた。
別の商売を営む商店に変化するところもあった。しかし長くは続かなかった。

昭和34年8月12日から3日間に渡って降り続いた雨は大きな被害をもたらし、水害からようやく立ち直った秋頃から住宅街の開発計画が進められた。
12月初旬には橋本栗ヶ谷、狩尾地区(約十万平方メートル)に2ヶ月で住宅500戸を建てるため山林開発の地鎮祭が行われ、急速な土地開拓に反対意見の住民も多くいた。

山林や竹やぶを開き、多くの住宅を造り、こうして現在の橋本に至るのである。

売春防止法実施後の橋本
橋本栗ヶ谷の開発
旅館の看板が残っている

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