モトハシ

京都出身デザイナーとして働く社会人。 私の生まれ育った街「旧橋本遊郭」の景観保存本を大学時代に制作。

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京都出身デザイナーとして働く社会人。 私の生まれ育った街「旧橋本遊郭」の景観保存本を大学時代に制作。

最近の記事

【橋本浪漫飛行】訪問記⑥橋本湯-旧橋本遊郭

昭和4年創業。「中の写真も撮るか」と声をかけて下さる気さくな主人は三代目。八幡市の中で唯一残っている銭湯。昔ながらのボイラーで湯を沸かしている。ライフスタイルが変化してしまい、客は減少し、採算が合わないと苦い顔で語られた。 昔は、渡し船でたくさん人がやってきた。当時は水道が通ってなかったので繁盛していた。遊女もここの銭湯を使用していた。 橋本にはもう一件銭湯があったが現在は空き地になっている。 ボイラー室 営業前に薪をたき、お湯を沸かす。営業後は清掃。就寝は四時~五時頃に

    • 【橋本浪漫飛行】訪問記⑤ヤヲリキ-旧橋本遊郭

      ヤヲリキは大正14年に建てられた洋食店。元々はカフェーでウェイトレスがいた。所々にある柱は、二階がタイルばりで多くの支えが必要であったため。 現在は重さに耐えきれないということでタイルは全て除いた。玄関も改装されていて、昔は玄関先で野菜を売っていた。玄関のタイルの色が違うので、訪問の際は足元にも注目を。 今回頂いた食事は特別メニュー「お弁当」。 手作りソース、炭入りお冷やなどメニューにこだりを感じる。 レトロな洋食店 置いてあるものすべてに時代を感じさせる

      • 【橋本浪漫飛行】訪問記②多津美旅館-旧橋本遊郭

        今でも営業されている多津美旅館。たくさんの色を使っていて鮮やかである。 地面は色違いの柄のあるタイルで敷き詰められている。残念なことに、今は色褪せてしまっている。 玄関の外にも、家の中の電灯にもツバメの巣があり、親鳥がよく飛び回っている。 玄関右手には大きなアーチがそびえ立ち、鮮やかな装飾は、橋本一の派手さかもしれない。

        • 【橋本浪漫飛行】橋本散策⑥-旧橋本遊郭

          波と鳥の欄間 松竹梅の欄間 小金川地蔵尊 ここにはお地蔵様が祀られている。この地蔵さんは不思議な地蔵さんなのだ。 明治時代、辻本家の旦那の夢枕に地蔵さんが立ち「ここの井戸から出してくれ」と告げた。井戸さらえをしたところ、夢に現れた地蔵さんが発見された。 そしてその地蔵さんを祀ったことが始まりであった。 以来、幾度も淀川の水害があったが、不思議と当地近辺には被害が及ばなかった。このことから「水嫌地蔵」として現在も祀られている。 この建物は平成8年のもので、以前は小さ

          【橋本浪漫飛行】橋本散策⑤-旧橋本遊郭

          そびえ立つ恵比寿さん 恵比寿さんと同じ建物 鐘馗さんと鯉の欄間

          【橋本浪漫飛行】橋本散策⑤-旧橋本遊郭

          【橋本浪漫飛行】橋本散策④-旧橋本遊郭

          窓にテープが貼られている 大正九年に建てられた 格子がカーブしている

          【橋本浪漫飛行】橋本散策④-旧橋本遊郭

          【橋本浪漫飛行】橋本散策③-旧橋本遊郭

          空き家なのか少しほこりっぽい 格子から緑が生い茂って美しい タイル装飾の防火用水

          【橋本浪漫飛行】橋本散策③-旧橋本遊郭

          【橋本浪漫飛行】橋本散策②-旧橋本遊郭

          スナックダイトク 鯉が舞泳ぐ欄間 ガレージの地面はタイル

          【橋本浪漫飛行】橋本散策②-旧橋本遊郭

          【橋本浪漫飛行】橋本散策①-旧橋本遊郭

          今も残る橋本遊郭の町並みの名残。取り壊されてしまったものも多いが、今でも独特の雰囲気を醸し出している。 ここではスケッチと写真で紹介していく。気候のよい時期は、私の他にも様々な人がカメラ片手に散策していた。写真を撮る人、絵を描く人、毎年たくさんの人が訪れるという。 新しい住宅、空き地になるところが年々増えていて、建物の老朽化も気になるところ。 今も暮らしている家も、昔のままだと暮らしにくいと、ほとんど改装されている。 スケッチをしていると通りがかった住民の方が声をかけてく

          【橋本浪漫飛行】橋本散策①-旧橋本遊郭

          【橋本浪漫飛行】橋本と遊郭②-旧橋本遊郭

          津田電線 橋本にはかつて津田電線の工場があった。 大正元年(1912年)に津田電線合名会社八幡工場が操業を開始した。当時は従業員132人(男23名、女109名)、昭和34年には200人を超えた。 工場は、朝の七時半から夜の七時半まで運転され、就労年間335日、一日12時間というフル操業であった。 昭和33年(1958年)までの46年間、存在した。 大谷川 橋本遊廓の裏には大谷川という小さな川が流れている。 昔は綺麗な川で泳いで遊べたそうな。大谷川に架かる「栄橋」が

          【橋本浪漫飛行】橋本と遊郭②-旧橋本遊郭

          【橋本浪漫飛行】橋本と遊郭①-旧橋本遊郭

          幕末の橋本もとい橋本町は、鳥羽伏見の戦いで焼け野原になってしまう。 明治維新以来、近代化政策に乗り遅れ、賑わいを失ってしまった。賑わいを取り戻す一番手っ取り早い方法、それは元遊廓地の復興であった。明治二〇年六月京都府知事の認可を受け、木津警察署の監督のもと、北之町、中之町、小金川に遊廓区域が設定された。 その後、津田電線の工場の設立もあって近隣人口も増加した。 京阪電車による交通の便、石清水八幡宮の参拝者により、次第に賑わいをみせるようになった。 大正十二年七月、十万円の

          【橋本浪漫飛行】橋本と遊郭①-旧橋本遊郭

          【橋本浪漫飛行】現在も残る道しるべ-旧橋本遊郭

          橋本にはいくつか道しるべが残っている。主に渡し船、石清水八幡宮に関するものが多い。昔、橋本が栄えていた証である。 道しるべは「道」だけでなく、「歴史」をも導いてくれる貴重な財産。 今は住宅街の道端に、追いやられている。また寺院の道しるべもある。橋本には多くの寺院があるが、昔は「橋本寺」があった。元禄年中から寛保までの40年ほどの間に絶えたと考えられている。 他に渡し船の対岸、大山崎の国鉄や寺院についての道しるべも記されている。

          【橋本浪漫飛行】現在も残る道しるべ-旧橋本遊郭

          【橋本浪漫飛行】橋本遊郭ができた背景

          なぜ橋本という地に遊郭ができたのだろう。 橋本は古くから二つの顔を持った町として発展してきた。 一つは京・大坂を結ぶ河川通行の中継地・津としての商業的な顔があり、 もう一つは石清水八幡宮のお膝元として八幡宮の影響が色濃く現れた顔である。 八幡山から橋本見れば 赤い女が出て招く「淀川船頭歌」にも歌われたほど有名な遊郭だったが、いつ頃できたのかはよく分かっていない。 史料によると、江戸初期の慶安二年(1649年)正月二十日に橋本で荷物を盗んだ者があり、淀で捕えられた。この時

          【橋本浪漫飛行】橋本遊郭ができた背景

          【橋本浪漫飛行】はじめに-旧橋本遊廓

          2011年大学の卒業制作で制作した「橋本」景観保存本のリバイバルです。 当時取材をした際は、親切な方に恵まれ色んなことを教えていただきましたが、よく思っていない方がいるのも事実です。 「遊郭」は悲しい歴史いわゆる「負の遺産」。 そんな建物を取り上げるというのは、きっと色んな意見があると思います。 一方で建物や景観は非常に美しく独特な雰囲気があり、私が生まれ育った「橋本」の街をただ楽しんで欲しいと思い制作に至りました。 10年以上前の調査ですので、現在は建て壊されているも

          【橋本浪漫飛行】はじめに-旧橋本遊廓