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ユニクロを着た小市民【編集後記】

 こんばんは。とけるちゃんです。

 私は自分の言葉は、人に聞かせる価値があると思っている。なぜなら、人々があまりにも私の言葉を褒めてくれるから。

 書いていて、あまりある傲慢さに眩暈がする。実際のところ、取るに足らない特異だと思う。特長ですらない。特別生きるのに役立っている感じはないし、むしろ不便を助長しているとすら思う。



 けれど、上記の記事を書いてみて思った。言葉を綴って、その中で思考しなんとなく思っていることを言語化するってかなり特殊技能なんじゃないかと。書き出しは全然違うタイトルだったのに、書いてみれば結局イイ感じに纏まって。我ながら感心したものだ。

 言語化って体感としてもかなり考え方のフレーム部分に直結している気がしていて。何かにすぐ喩えられたり、良い感じの表現を創り出せる。
 最近だと「居てくれるだけでマジで最高ほんとついて来てくれればいいんで」という案件を「キーホルダーちゃんやってくれない?」と言い換えたのは必要十分でなかなか良いと思っている。

 それで、本当のところとしては勿論謙虚であるべきで、私は自分の言葉に実際言う程価値があるとは思ってないけれど。でも、それはそれとして思うのだ。それは正しいだけで、魅力的ではないんじゃないかって。

 正しいことは、その正しさ故に礼賛(すばらしいものとして、ほめたたえること。また、ありがたく思うこと)されがちだ。でも、正しいことを言って何になる? というのが言語化チョットデキル私の感想だ。

 これは伝わるか自信がない感覚なのだけれど、あまりにも悪者を引き受けない人についてズルいと思うことがある。
 例えば、誰かを諫めるだとか、日程調整だとか。そういう面倒で、素直な方には素直に嫌われてしまいそうな役割。あるいは、仕事でも私事でもいいがトラブルが起こったとき。それ自体はどうしようもないし、概ねの場合互いに損を被っている。その際の落としどころとして、場を導くとか謝罪するとか。
 こういうのって、誰に頼まれたわけでもないし、お節介の自己満足だろ勝手にやってろよと思うのも分かる。そしてその意見も概してやっぱり正しい。
 でも結果としてそれにタダ乗りして心地いいコミュニティを享受するのにこちらも思うところはやっぱりある訳で。

 全然ドラマティックでもないしみみっちい話だ。けれど、この悪者を引き受けるのがある種傲慢な、自信のある発言であると思うので、これからも不遜になりすぎないように自分への評価は素直に(そしてありがたく)頂戴しようと思った次第だ。
 ほんと、あんな大作を観たあとの編集後記とは思えない矮小な話で申し訳は立たないけれど、これも私と誰かのためになる可能性を信じて残しておく。


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