「錯覚資産」への違和感・嫌悪感の正体
人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」で決まっている という本で紹介されている「錯覚資産」という概念がある。
錯覚資産とは、「他人が自分に対して抱く、自分に都合のいい錯覚」のことだ。
タイトルにもある通り、この錯覚資産(=勘違いさせる力)を駆使することこそ、人生を切り開くために必要なこと、というのが主張で。
最初に読んだ時は「ごもっとも!目からウロコ!」
…なんて思ったわけだけど、気づくと、なんだか違和感というか、嫌悪感があって、錯覚資産を積極的に駆使することに、どこか躊躇してしまう自分がいる。
この違和感の正体について考えてみたい。
仮説1:そもそも、そういうもの
「錯覚資産」の積極活用に違和感を抱くのは、そもそも、そういうものだから、という説。本書にもしっかり書いてある。
錯覚資産による成功は、トリックによる成功だ。 それをごまかして、自分が立派な人間であるために成功したかのように言うから、醜悪で卑劣なのだ。
誰もが錯覚資産という悪魔の力を駆使しているこの世界では、 錯覚資産なしには、自分の人生の活路を切り開くことはできないのだ。
直観に反することは、論理的に間違っていることを理解していても、直観が正しいと思ってしまう。
錯覚資産で活路を開くことは、そう思い込んでしまう脳のセキュリティホールに抗う概念だから、錯覚資産を駆使することは醜悪だ、なんだかんだ言って実力が大事、と思いたい直観を御せないだけ、という説。
この説はかなり有力だが、これだと自分が納得できないので、もう少し考えてみることにする。
仮説2:実力を磨くことを怠りそうになるが嫌
錯覚資産に頼ると、実力を磨かなくなっちゃうんじゃないか、だから、錯覚資産に嫌悪感を持っている、という説。
錯覚資産を駆使しだすと、相対的に実力が不足していても成果を得られやすくなる。その結果、ただでさえ億劫な鍛錬、スキルアップを怠る方向性を自分の中で、正当化してしまいそうな不安。
本書にも、スキルアップは重要、とある。
一般に、「錯覚資産の重要性を認識しておらず、錯覚資産がボトルネックになってしまっている人」が非常に多いので、本書は主に錯覚資産の重要性を強調してきた。
しかし、それは、必ずしもスキルアップの重要性を否定するものではない。 むしろ、錯覚資産を増やすためにも、スキルアップは重要だ。 錯覚資産増やしとスキルアップは、車の両輪なのだ。
しかし、本書でスキルアップが重要と書かれているのは、ほぼこの部分だけなので、サラッと読んだ人は、錯覚資産で楽して成功を掴もう、と思ってしまうんじゃないかと。
これは、推薦入試やらAO入試で、受験勉強しないで合格できるなら、わざわざ勉強しないよね、という話に近くて。
受験勉強しないと、バカになるから、合格するのをわかっていても推薦入試を自ら蹴って、あえて一般受験しに行く、みたいな発想か。
こう例えると、「アホか、お前の自己満だろ」としか思わないので、この説はちょっと違うかもな。
仮説3:実力勝負の世の中だったほうが自分に有利だから
自分自身の人生を振り返ると、小さい頃から、テストが得意な方だった。ペーパーテストが得意種目だから、自分が不得意な「錯覚資産の駆使」という種目の比率が高い世の中では不利になる。
だから、嫌悪感を感じているという説。
これはただの「酸っぱい葡萄」。結論これだど、恥ずかしすぎるので、却下。
仮説4:自分が買い手の時に、錯覚資産まみれの商品・サービスを掴みたくないから
自分が選ぶ側だった場合、錯覚資産にまみれていて、実力が足りないサービスに対価を払ってしまうと、損してしまう。
ゆえに、みんな錯覚資産使わないでよ、、という説。
これについては、本書では、自分の判断には「思考の粘り強さ」が重要だ、と書かれている。
あなたは、あなたの人生の最高経営責任者だ。 あなたは、あなたの人生の経営判断を、是が非でも間違えるわけにはいかない。 だから、 自分の人生の選択をするときだけは、徹底的に思考の錯覚の汚染を除去して、研ぎ澄まされた直感と論理的思考で、本当に正しい判断をしなければならないのだ。
判断が難しいときは、「思考の粘り強さ」が決定的に重要になる。 「思考の粘り強さ」がない人間が、難しい問題について考え抜くのを放棄して、思考の錯覚の泥沼に沈んでいく のだ。
粘り強く思考するのは、面倒くさい。だから、みんな自分を騙さないでね、信じるから、という世界は、理想ではあるが、現実的にはお花畑でしかないことくらいわかる。
ゆえに、これが錯覚資産を駆使することへの嫌悪感の正体か、というと、そうじゃなさそう。
仮説5:錯覚資産を駆使する人の中に、ヤリ逃げしようと意図が透けて見えることが多いから
Twitterをやってたりすると、名前の後に「100万PV突破」とか、錯覚資産を駆使しようとしている感が漂う人を割と頻繁に見かける。
まあ、自分も社名と肩書と職歴をプロフィールに書いていたりするのは、錯覚資産を駆使しようとしている側面もあるので、それ自体は悪いことじゃないと思うし、そんなこと言ってたらプロフィール書けないし。
ただ、違和感や嫌悪感を感じる場合とそうじゃない場合があって、例えるなら、匿名で単発の情報商材売ってるみたいな人。最初からクソなものを売る前提、騙す前提、逃げ切る前提の人。これは錯覚資産どうのこうの、ではなく単なる詐欺ですな。
確かに詐欺の人は錯覚資産を駆使していることが多いけど、それは、詐欺が悪いだけで、錯覚資産を駆使する人の中の一部の詐欺をする人への嫌悪感だよな。
そういう意味では、錯覚資産の駆使への嫌悪感の理由にはならない。
仮説6:錯覚資産で掴んだ機会をモノにする自信がないから
さっきの話に続けて、
単なる詐欺師と、「錯覚資産を駆使するけど、詐欺師ではない」という人の境目は、どこにあるのだろうか、と考えてみると、結構難しい。
まず思いつくのは、悪意の有無、だが、「自分の利のために」を悪意と呼ぶのであれば、どっちも悪意はあることになる。
結局、相手が「騙された!」と思うかどうか、横でその行為を見た「第三者」が詐欺!と思うかどうか、でしかないんじゃないかと。(もちろん、法的にアウト、社会的にアウト、というラインはあるものの。)
で、騙された!と思われた時に逃げ切れず、他人に伝わたり広まったりすると、それが「負の錯覚資産」になって、自分に跳ね返ってくる(程度によっては警察に捕まる)
結局のところ、錯覚資産で機会を掴んだ場合に、その判断をした相手やそれを目にする可能性のある関係者・第三者が「騙された!」と思わない程度に、期待値、約束を上回れるかの勝負なんじゃないかと。
錯覚資産を駆使すると「機会は増える」が、それがそのまま成果になるわけではなく、それをモノにできるかどうか、(少なくとも騙されたと思われないようにできるかどうか)という次のステージがある。
盛りに盛って、機会を掴んだとしても、そこから必死に帳尻をあわせて、相手の期待を超えていれば問題ないし、たとえその場で期待値を下回ったとしても、その後に補填、挽回できれば、それは詐欺ではないと思う。
結局、機会を掴む、約束をする、ということは、期待値を超える、約束を守る、それが無理なら自分の負の錯覚資産として跳ね返ってくる。ゆえに、期待値を超えることにコミットしなければ詐欺と同じ。
なんか、このあたりにおける、自分の覚悟や度胸のなさ、コミットできない弱さが刺激されるから、それを正当化するために、錯覚資産に嫌悪感をもっちゃうんじゃないかと。
単にリスクを回避したいだけのような気がしてきた。
現段階の自分なりの結論まとめ
まとめると、
錯覚資産を駆使する人に嫌悪感を持ってしまうのは、自分自身が、掴んだ機会をモノにしてやるという意志と覚悟、執念や自信がないから。失敗して破綻するリスクにビビっているだけ。
そんな自分を正当化するために、錯覚資産なんて卑怯な手は使いたくない、錯覚資産を駆使することに違和感・嫌悪感を抱き、自分は、クリーンに、正しく生きる、そんな自分が好き、と酔っているだけ。
錯覚資産を使う、ということは、バレたら引きずり降ろされる、というリスクと表裏一体。(そのリスクも理解していないハッタリくんは、おめでたいだけ)
それでもリスクを取って勝負する!という意志と覚悟があるかどうか。
ついたウソから逃げずに、たとえ多少のウソがあったとしても本当にしてしまうためのコミット・努力をすれば良い。その責任を負いきれる覚悟があるなら、錯覚資産を駆使しまくれば良い。
が、そこまでして手に入れたい何かがない。怖い。
もう少し考えたいけど、現段階ではこんな感じ。結局のところ、自分の気質の問題なんじゃないか。
毎週note書いてます!
結局のところ、「知覚されたことが全て」なわけで、自分がどういう思いでやったのか、例えば「悪意があったのか、なかったのか」とか、なんて、どうでもよいし、そもそも悪意がなかったというのも、自分を正当化するための脳の捏造だったりする。
なんで毎週noteを書くのか、についても、本来はどう知覚されるか?から逆算して設計されるべきモノなんだろうけど、内容を見れば明らかにそうなっていなくて、じゃあ、なんでやってるのかについての理由を考えてみても、続けてきたサンクコストを正当化するための脳の捏造にしか思えない。詰んできた。
※今回は、11月3日(日)~11月9日(土)分の週報になります。