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「自分は間違えてない」と思ってしまっているうちは、経営者にはなれない。
自分のこと、なんですけど。
##この話も自分の未熟さを晒すだけのことなので、この場にテキストで残すのもどうなのか、と思うんですが、何かを書く、というのはそういうことだと割り切って、未来の自分のために残しておきます。(毎週そんな話を書いてます。)
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重たい仕事の判断ミスから、ちょっとした夫婦ゲンカまで、やらかしてしまった時に、私がとっさに思うこと、それは、
「自分は間違えてない」
ほとんどいつも、これ。
特にひどい時には、いかに自分が論理的に正しく、悪意のない判断をしたのか、こんこんと語り出していたりする。(~そして炎上へ~)
これまでそのことに、あまり自覚はなかったのだけど、最近ようやく、いかに無意味で愚かなことなのかを思い知らされつつある。
先日読み直した本にも、こんな一文があった。
正解が存在しない問いに対して答えを見つけていくわけですから、自分が選んだオプションを正解にすべくあらゆる手を講じる姿勢こそ、当事者がとるべき態度でしょう。「正しい」「間違った」という形容そのものが、当事者にとっては意味をなさない のです。
引用元はこちらの本↓
ちょっと前の本ですが、全く色褪せない、芯を食った本だと思ってます。本日は経営と決断について、書いていきたい。
経営とは、当事者として決断をして、その結果と業を背負うこと
サラリーマンとして結果を出し、出世していくことと、経営者の仕事は根本的に違う。むしろ逆なんじゃないか。
最近そんなことを思うようになっている。上手く言語化できていなかったんだけど、この一文でだいぶ見えてきた気がしていて、
人々の不興を買うことは、経営者の 宿痾 のようなものです。どんな名手であっても、万人を幸せにすることはできません。厳しい状況下の選択であれば、なおさらです。その意味で、経営者や意思決定者の究極の仕事とは、ひょっとしたら決断の結果としての 業 を一身に負うことなのかもしれません。
サラリーマンで出世するには、(会社にもよるけど、)大きなバッテンがつかないことだったり、いらぬ恨みを買わない、あたりが大事なんじゃないかと思っており、意思決定に求められる態度とは真逆の力学になってしまうのではないか。
余談だけど、キングダムでも、大将軍はこれまで戦場でともに戦い死んだ多く人の業を背負っている、そこが山にこもって武を極めんとする龐煖の強さを上回る理由、みたいに描かれている(という私の解釈。)
配慮や忖度で誰に対しても「いい人」であろうとするのは、結局、自分を守っているだけ、私利私欲。
経営者は、嫌われる。
嫌われることを厭わなければ意思決定なんてできない。これが全てで。
自分が向き合っている仕事そのものよりも、周囲の評価や個人のレピュテーション(評価) をより気にかけてしまう人も少なくありません。まるで本末転倒の状況ですが、承認欲求が強すぎるがために、いたずらに己の才覚や精神を磨り減らしてしまったように見受けられる人もいます。
これは、すごく心が痛む。この意思決定をしたら、あの人怒るだろうな、、一生恨まれかねない、、で、決断がゆらぎまくる。
他の役員やら外部の顧問からの意見やアドバイスを少しずつ入れて、中途半端な意思決定になるのも、これも、仕事の結果よりも、結果によって、自分が責められることが怖いから。
「いい人」であろうとすると、誰に対しても薄く広く情けをかけてしまいます。けれどもそれは、誰に対しても薄情であることにほかならないのです。
経営者の決断に必要なのは「無心の覚悟と開き直り」
経営者の決断は、誰かに一生恨まれかねないような要素を多分に含む、それゆえに、決断は、自分の利のため、ではなく、目的のためになされないとダメで、その境地ある「開き直り」こそ、重要。
「自分は考えに考え抜いた末、こちらの道を選んだ。この時点で考えられ得る決断をしたのだ。何が起きようと、その結果を自分は背負う」 こうまで思い切ることができないと、歩みを進めることができません。この点に、「開き直り」が重要だと申し上げる 所以 があるのです。
無私の境地というか、悟りを開く、みたいな印象を受ける。人間性や器の問題であり、論理を尽くしても決断はできない、覚悟の話だなと。
抜き差しならない局面というのは得てして意思決定者の価値判断を問われる ものであり、インパクトやフィージビリティの評価そのものが、意思決定者の価値観を多分に反映してしまいます。意思決定とは何も、「どちらの施策のほうがより儲かるか?」といった単純な問いに答えるばかりとは限りません。むしろ、正解のない問いに対し、自分の人格をぶつけて答えをつくっていくものです。すべての問いに正しい解などというものがあるのであれば、経営など人工知能に任せたほうがよほどよいでしょう。仮に「中立的な決断」という表現があるとすれば、それは語義矛盾というものです。
「正しい」なんて、ない世界。
自分は、覚悟もないのに、「正しい」ことが優先されるべき、と思って生きてきたけど、正しいかどうかなんて、誰にもわからないからこそ、覚悟を持って決断する人が必要。
その覚悟を持って決断した人に対して、正しくない、と批判することや、自分がまかりなりにも「決断」したことで発生した「結果」に対して、自分が間違えていない、と言い出すことが、どれだけ幼稚で身勝手極まりないことなのか。
本書には、元サッカー日本代表の岡田監督のインタビューも掲載されているのだけど、こんなことが書いてある。
ただ、その直感も、「Xにしたら、Yがふて腐れるんじゃないか」「マスコミに叩かれるかもしれない」なんて余計なことを考えていたら当たらない。だから、〝どういう状態で自分が決断するか〟が一番大事です。スッと自分が無心に近い状態になって、チームが勝つにはどうすればいいかと考えてポッと浮かぶ。こういうときの直感は今まで 99%ぐらいの確率で当たっています。ユングの集合的無意識じゃないけど、本当は自分も答えを知っているのに雑念で遮断されているというイメージです。
禅みたいな感じだけど、すごく納得感ある。
「事をなす」ための心意気と挑戦すべきテーマ
とはいえ、そんなこと言われると、経営における決断なんて器の小さい自分には、到底できないとのように思える。
誰から頼まれもせず、やめておけと言われても、振り切って挑むような心意気なくして、事をなすことはできないのではないでしょうか。
ああ、やっぱりここだよなと。
過去上手くいった時って、いつもこんな感じ。人生をかける大きなテーマではないものの、その場その場では、誰に止められようがやる、と思えたことは成功してるし、そうじゃないものはグズグズになっている。
一生涯かけてもこうしたテーマに巡り会うことができるかどうか分かりません。けれども、いつ何時、巡り会ってもいいように、準備はしておくべきでしょう。私はそうありたいと思います。挑戦しないことには、失敗することすらできないのですから。
当面は何事も準備だと思って、決断を意識して事にあたりたい。
最後に、メモとして引用しておきたい一文。
薩摩には「男の順序」という教えがあるそうです。
一、何かに挑戦し、成功した者
二、何かに挑戦し、失敗した者
三、自分は挑戦していないが、挑戦する人を手助けした者
四、何もしない者
五、何もせずに批判するだけの者
挑戦できるテーマが見つからないうちは、手助けして生きていきたい。
毎週note書いてます
小さい挑戦をたくさんしている毎日は刺激的で成長速度も上がっていく実感がある。いつか「事をなす」ような器を持った人になれるように、日々鍛錬だと言い聞かせて生きていきたい。
※今回は、11月10日(日)~11月16日(土)分の週報になります。