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#2 気をつけてね。

「気をつけてね。」

とても素敵な言葉だと思う。
これは、相手のことを純粋に想わないと出てこない言葉だ。相手のことを気遣い、何もないことを願っている。そんなことをサラッと言える人が、僕の周りには何人かいる。
そんな人たちをみて、素晴らしいな、恵まれてるな、と思いつつ、自分はどうなのかと考えてしまう。

「優しさとは、何か」

という問題が、ここ数年ずっと頭の片隅にある。

「見返りを求めず、相手のためにすること」
が優しさだとすると、僕は優しさのカケラもなく、とても卑しい人間だと思う。

なぜなら、
相手のためにというのは、とても自分勝手な行為だし、本当に相手のためになってるのかわからない。それをした後に相手からの印象が良くなることを考えて、優しく接している。
つまり「優しさ」を相手にみせる時点で、その先の見返りを求めているということだ。

と頭の中で考えるうちに「そんなこと思ってる奴が優しいわけないじゃん」となり、

「気をつけてね」

の一言を言うタイミングをいつも逃す。

僕の周りにいる「気をつけてね」を言える人は、そんなこと考えずに

ただ、そう思ってるだけなのだ。

もしかしたら卑しい気持ちがあるかもしれないが、少なくともそれが、「優しい」に値する言葉(行為)なんて微塵も思っていない。

しかし純度100%の、見返りを求めず、相手を思いやれる人など、果たしているのだろうか。


それはいるかもしれないし、いないかもしれない。この人は、そうなのでは!と思うけど、それはその人の一面に過ぎなくて。本当のところはどう思ってるのかわからない。

これは、答えがあるような問いではない。
白黒つけるようなものでもない。

なぜなら1番不確定要素を持ち合わせてる
「人間の心」を見ることができないからだ。

(最近は、白黒がハッキリしててグレーというのが、落ち着かない人が多いかもしれない。人の心はグレーで溢れてるのに。)

ならば、その「人間の心」が見えなのなら、
いっそのこと、その行為が回り回って自分のためだとしても、「相手のために」が挟んでいるのなら、それでいいのではないか、と感じ始めた。

自分だけの目線で見たら、卑しいかもしれないが、相手からしたら「優しい言葉」かもしれない。(ほとんどの人はなんとも思っていないのであるが。)

もっとも、自分も意識せず、「気をつけてね」に値する言葉を発しているのかもしれない。

それが、相手に伝わってるなら、こんな卑しい自分もすてたもんじゃない。

結局のところ、何が良くて何が悪いかなんてよくわからない。でも、少なくとも相手のことをまっすぐ思えるような人になりたいと、
矢印を自分から少し外に向ける努力はすべきでろう。

もしかしたら卑しいと思った事が、跳ね返って自分にとって「優しい」と感じるものになって返ってくるかもしれないのだから。


、、、既に見返り求めてるな、俺。
、、、気をつけような、俺。(笑)

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