歩くあるく:みちのく潮風トレイル日記・ 第8日(2021年8月20日、おくのほそ道と潮風トレイルの接点、多賀城・塩釜。名取トレイルセンターー本塩釜駅126.05km)
名取トレイルセンターから本塩釜駅までの29.43kmは、いろいろな意味で興味深い。とくに、「おくのほそ道」との接点を具体的に辿れるのはこのコースの多賀城と塩釜だけだ。確証はないが、壺の碑から金華山道という旧道を通って、塩釜に至ったのではないだろうか。芭蕉の本文では、壺の碑、沖の石、末の松山、塩釜という記述の順序だが、『曽良旅日記』では、いったん塩釜に着いたのちに、末の松山、沖の石(冒頭の写真)などを訪ねたという記述になっている(旧暦5月8日、新暦の6月24日の項)。いずれにしろ、芭蕉・曽良の一行と、1000kmのトレイルを歩く私たちが共通に訪れるポイントは、壺の碑(多賀城碑)、沖の石、末の松山、塩釜神社、塩釜港に限られる。石巻では、芭蕉・曽良は日和山に上るが、トレイルでは上らない。
芭蕉・曽良は、みちのく潮風トレイルの大先達と言えそうだ。2人がいかに健脚だったかを後段で考察したい。
【今日歩いた距離】——人生でもっともたくさん歩いた日を更新
次回第9日目に朝から島巡りをスタートできるように本塩釜駅までの公式ルート上での29.43kmをがんばった。万歩計上では、自宅を出発して本塩釜駅まで、1日で計8時間53分、37.15km、,46376歩あるいている。わが人生でもっともたくさん歩いた日をたちまち更新だ。今日は18時20分過ぎには足元が暗くなった。これからどんどん日が短くなるから、当面これを上回ることはできないだろう。1時間平均で4.18km。平坦なルートでは、コンスタントに毎時4km以上歩けるようになった。貞山堀沿いの約9.4km、多賀城・塩釜の芭蕉の跡を辿るルートなど感慨深い。高層ビル群の仙台市中心部を遠望しながら、津波被災地をめぐるルートでもある。
トレイルセンターを8時10分に出発。
トレイルセンターのある閖上(ゆりあげ)も津波被害の大きな地域だった。それだけに周辺を歩くのは重苦しい。
住民の1割以上が犠牲に——閖上地区の被害
閖上地区では浸水高9.1mの津波が来襲、計753名が亡くなった(名取市資料)。名取市全体の震災の死者(923名)の約8割を占める。閖上地区には当時7103名が住んでいたということだから、犠牲者の割合は住民の1割を超える。下は、2011年4月17日に筆者が、日和山から撮影したもの。手前は貞山堀。橋は東部道路の新名取川橋。震災当日の閖上地区の混乱の様子は、河北新報の以下の連載記事に詳しい。http://memory.ever.jp/tsunami/shogen_natori.html
県道10号線に出て(この五差路も、震災当日は交通渋滞で断末魔の状況だったことが上記の河北新報の記事でわかる)、北上、名取川にかかる閖上大橋を渡る。震災後、しばらくは閖上大橋は通行止めだった。津波発生時には、この名取川が、東北新幹線の鉄橋付近まで、約6kmにわたって逆流した。
今日は、名取川、七北田川、砂押川の橋を渡る。青葉城恋唄で有名な、仙台市の都心部を流れる広瀬川は名取川の支流である。
名取川の土手から、対岸にかわまちテラスや集合災害公営住宅が見える。
藤塚の「避難の丘」で、松川浦からほぼ100kmだ。
貞山堀
この「避難の丘」から貞山堀に沿って、約9.4km北上する。貞山運河水門からは、自転車専用道路を歩く。サイクリングの人達が結構走っている。
震災前、貞山堀の周りには集落が点在していたが、震災後は危険区域指定され、空地が拡がっている。クロマツの海岸林が鬱蒼としていたが、今は面影がぽつんぽつんと残るばかりだ。貞山堀は阿武隈川河口から塩釜までの運河で貞山運河ともいう。長さ36km、貞山は、伊達政宗の諱(いみな)である。
貞山堀は陸上交通の時代に入って長い間忘れられていた感があったが、3.11の津波は、貞山堀の減災機能を再認識させた。周辺に居住者のいなくなった貞山堀を今度どう活用するかは、大きな課題だ。堀に沿って、地元企業や団体などによる、クロマツの植樹も進んでいる(写真下、藤崎は地元の百貨店)。
震災遺構・旧荒浜小学校
やがて旧荒浜小学校がポツンと遠くに見えてくる。仙台市内唯一の震災遺構だ。山元町の旧中浜小学校も同様だったが、周辺の建物が撤去され更地化した後に、小学校跡が1つだけ建っているのを見るのはひどく切ない。4階建ての小学校の2階まで濁流が押し寄せた。子どもたちや避難してきた地域住民計320人はヘリコプターで全員無事救出された。
荒浜小学校に近づくと、貞山堀にかかる深沼橋が見えてきた(写真上)。昭和10年竣工とある。深沼橋は奇跡的に津波に耐えたのである。この橋を海側に渡ると深沼海水浴場が拡がっていた(震災以後は閉鎖)。
自転車専用道路をさらにずんずん進むと遂に七北田川に出る。七北田川でも津波が逆流して、川の両岸での被害が深刻だった。
仙台市民の犠牲者数は行方不明者・震災関連死者を含め1001名(2012年時点)。仙台市民として、同じ市内で、1000名以上の方が亡くなったことはひどく哀しい。
写真は七北田川河口。下の写真には写っていないが、河口の左側に、津波で一端は流出したものの、その後奇跡的に蘇った蒲生干潟がある。
関西電力・伊藤忠商事による石炭火力発電所建設
「災害資本主義」とも言われるが、地価が下がり、危険区域指定され、住民が追い払われた被災地に、ここぞとばかりに環境汚染をもたらす危険施設を立地しようという災害便乗の動きがある。しかも、行政としての宮城県や仙台市が、「震災復興」の名のもとに率先してそのお先棒を担いでいるという残念な現実がある。その典型例が、関西電力と伊藤忠商事の孫会社による石炭火力発電所・仙台パワーステーションの建設・運転だ(下の写真中央の煙を出している施設)。環境アセスメントをすり抜け、住民説明会も開かずに「そこのけそこのけ石炭火力だ」というやり方を周辺住民が批判、PM2.5や大気汚染、蒲生干潟への水銀汚染の危険性を問題視して、2017年9月27日には日本で最初の石炭火力発電所操業差止訴訟が提起された。2015年以降、日本各地で石炭火力発電所建設への批判が高まったが、その先鞭を付けた画期的な運動であり、訴訟である。https://stopsendaips.jp/
写真は高砂橋から七北田川河口を見たもの。左側が蒲生北地区。これから5年後、10年後どうなるのか心配でならない。
中国語訳は陸奥海岸越野山路
仙台市は「みちのく潮風トレイル」に冷淡なのか、トレイルの道標は931.43km(南から112.00km)の中野栄方面への分岐点1ヶ所でしか気づかなかった。その点、歴史の街多賀城市に入るとトレイルの案内板がすぐに迎えてくれ、道標も増える。「みちのく潮風トレイル」の中国語訳は、「陸奥海岸越野山路」。カタカナのない中国ではすべて漢字に訳す。トレイルは越野山路。何と的確な表現だろう!
多賀城・塩釜市内の要注意箇所
ただし多賀城・塩釜市内のルートは複雑で迷いやすい。何度も行ったことがあり、土地勘のある筆者も何箇所か間違えそうになった。GPSを持っていないと正しいルートを歩くことは難しいだろう。北上コースの場合の要注意箇所を順に記す。
1)多賀城八幡小学校を過ぎて、仙石線の下をくぐり、さらに道路の下をくぐって砂押川の土手に上る(砂押川の土手に上る道が細く、見過ごしやすい)。
2)多賀城廃寺跡への入り方がわかりにくい。一般道から、公園内の未舗装の細い道に入る。潮風トレイルの道標に気が付く必要がある。
3)塩釜市内に入ってからの金華山道も何箇所も、分岐する箇所で迷いやすい(道標が欲しい)。GPSでのときどきの位置確認が必須だ。この金華山道を、今から332年前、1689年(元禄2年)、新暦6月24日に芭蕉・曽良が歩いたかと思うと、非常に感慨深い。
芭蕉・曽良——恐るべき健脚
芭蕉の「おくのほそ道」は、歌枕を訪ねる旅だった。多賀城市内には今も、末の松山(下の写真)、沖の石(沖の井・興井とも表記。芭蕉は「沖の石」と記している。冒頭の写真)が残っている。住宅街の一角にあるが、いずれも歴史の風格がある。
風情があるのは多賀城碑。国の重要文化財。芭蕉はこれを歌枕「壺の碑」と解釈し、落涙した。「おくのほそ道」の中で、涙を流したと記してある箇所は稀である。もう一箇所は、平泉で「夏草や兵どもが夢の跡」と詠んだ折だ。
曽良旅日記によると、新暦6月20日朝白石を発って、岩沼の竹駒神社を経て、その日のうちに仙台に入っている。Google Map上で、白石市役所ー岩沼市役所ー仙台市役所を徒歩で移動するとすると、47.9km、9時間53分かかる。10時間で48km歩く(休憩を含んでいない)。時速4.85km進んでいる。実際には休憩もしただろうから、12時間ぐらい費やしただろう。48kmは現代の県道・国道を歩いたものとしての想定である。白石ー仙台間は平坦で、同一領内ではあるが、当時はもっとクネクネして、アップダウンもあっただろう。最低1割増しとして52kmぐらいは歩いたのではないか。朝7時に白石を発って、夕方7時に仙台に着いたとして12時間である。そうすると休憩を含んで時速4.33km、休憩は1時間程度だったとすると時速4.73km。2時間休憩したとして時速5.20km。結局芭蕉と曽良は、時速5km前後、1km12分前後で、休憩を含んで1日中歩き続けることができたと考えることができそうだ。恐るべき健脚だ。
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