vol.22「商店」冬至 12/21〜1/4
in-kyoの目の前にはスーパーのヨークベニマルがある。お店をこの場所に決めたときに「便利だなぁ」と思っていたけれど、想像していた以上に助かっている。トイレットペーパーや電球、ゴミ袋などの備品をはじめ、夏はドリンクメニューのための氷が欠かせない。お店用の買い物だけではなく、もちろん自宅のものも。私はうっかり者なので買い忘れもしばしば。「すぐに戻ります」と書いたメモ紙を入り口のガラスの扉にペタリと貼って、道のはす向かいであることをいいことに、日に何度も行くことがある。
「我が家のコンビニ」密かにそう呼んでいる。何かがあったとしても心強い存在だ。三春町内には中心地から少し離れた場所にももう一軒スーパーがあるが、その一方で個人商店がまだまだ元気なことも頼もしい。
以前に住んでいた集合住宅の近くには鮮魚店があって、市場からの仕入れ帰りなのだろうか、いつも朝早くから忙しそうにお仕事をされている。ご近所Yちゃんに教えてもらって、ここでは来客がある時などに前もって電話をしてお願いをするようにしている。
「○人で手巻き寿司をするのでお刺身盛り合わせを
おまかせでお願いします」
取りに伺う頃にはすでに包みにくるまれて用意されている。自宅で包みを開くと種類も量もたっぷりと、 手巻き寿司用に細長く切られた新鮮なお刺身が姿を現す。しかもお値段がお手頃でいつも驚いてしまう。家では寿司飯と海苔さえ用意しておけば、あっという間にご馳走の出来上がり。大人から子どもまで客人みんなに喜ばれるので、おもてなし料理は困った時の鮮魚屋さん頼みだ。
そのお隣りは三春名物おたりまんじゅうで有名な「三春昭進堂」。その昔、三春には馬の競り市場があり、その近くで構えていたお店で販売した、おたりお婆さんが作るお饅頭が話題となって「おたりまんじゅう」が生まれたのだとか。現在ではおたりまんじゅうの他にも冬限定のチョコレート饅頭や、いちご大福に桜餅、お花見団子、柏餅といった季節ごとの美味しさが揃っている。和菓子以外にもおいしいクリマスケーキだって頼むことができるのだ。我が家でも手土産にすることも多く、以前は通勤路だったから出勤前に「今日のおやつ」を自分用に買ったりもしていた。
今の家の近くにある精肉店へは夫が好きでよく買い物に出かけている。知人に馬刺しがおいしいと教えてもらって行くようになったのだが、馬刺しだけでなく他のお肉ももちろん、ケースに並んでいなくても、あれば塊り肉から料理に合わせて切り出してくれるのもありがたい。バーベキューの時などは、やはりおまかせで盛り合わせにしてもらっている。近くにある田村高校の生徒さんが部活帰りにここでコロッケやグルメンチ(三春名物のみじん切りのピーマンが入ったメンチカツ)を買って、頬張る姿はなんとも微笑ましい。まさにこの光景が将来まるごと彼らのソウルフードになるんだろうなぁと思うと、「君たち幸せだねぇ」などと、おせっかいおばさんは背中に向かって声をかけたくなってしまうのをグッと堪えている。
食料品店だけでなく、in-kyoのお隣りは床屋の「理容さくま」さん。いただきものをしたり、知らないことを教えて頂いたり、いつも大変お世話になっている。反対側のお隣りの「一九商店」さんは荒物雑貨。竹ぼうきや雪かきスコップ、他にも日用品からお盆の際の提灯など、季節商品を扱っている。降り始めのサラッとした雪は竹ぼうきで掃くのが一番だと最初に教えて下さったのも一九商店の橋本さんだ。なるほど道路が凍ってしまわないうちにサササッと粉雪を難なく払うことができるのだ。さらにそのお隣はお花の「まるおん」さん。お店に飾る花や枝ものを買いに出かけている。酒屋さんにお醤油屋さん、クリーニング店、洋服のお直し屋さん、洋品店に薬局。八百屋さん、本屋さん、写真店、種苗屋さん、パン屋さん、お菓子屋さん、時計店、畳屋さん、布団屋さんに電気屋さん、それからそれから。
「昔は金物屋さんや荒物屋さんも何軒かあってね」
地元の方からはそんなお話を伺ったことがある。商店ではないけれど、鍛冶屋さんや石屋さんといった職人横丁もin-kyoの近くにあったそうだ。当時はさぞかしいろんな音や匂い、城下町ならでは空気を感じる賑わいを見せていたのだろう。そして人と人とのあたたかなやりとりは、当時よりお店が減ってはいても、今も大切に受け継がれている。
私の実家も町の商店のひとつだった。もう数年前に引退したが、父は電気屋を営んでいた。決して最新の電化製品などではなく、いわゆる町の電気屋さんだ。ご近所のお年寄りの方から電話があれば、電球ひとつでも届けて交換までしていたし、お盆でもお正月でも依頼があれば父は大抵は伺って修理を引き受けていた。テレビを修理している間は、お客様に自宅のテレビを貸し出してもいた。その度に実家のテレビは大型テレビが小型になったり、リモコンだったものがそうではなくなったりと、コロコロと変わるのが日常だった。 私はずいぶんと大人になるまで他所で電池や電球を買ったことがなかったから、コンビニで電球などが売られているのを見てびっくりしたものだ。
そういえば震災の時、千葉の両親と電話がやっと繋がったときのこと。
「停電になった時の備えとか大丈夫?電池とかはお店にあるよね?」
「電池はみんな困ってたみたいでねぇ。全部売り切れちゃったのよ。アハハ」と、母。
「え!?大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫。仏壇にろうそくがたくさんあるから」
心底心配していた分、ガクンと力が抜けた。と同時にこの両親の娘で良かったとも思った。
大晦日まで仕事をし、従業員の人たちと年越しそばを食べてようやく仕事納め。大変だなぁと子どもの頃からその様子を見て知っていたので、お店は決してやるまいと思っていたというのに。父や母と同じようにはできないけれど、蛙の子は蛙。私はここでお店を続けて行く。