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vol.29「花おこしの雨」清明4/4〜4/19


 「この頃に降る雨は花おこしの雨って言うんだよ」

「花おこしの雨」という言葉を教えて下さったのは、ご近所のお店のご主人だ。三春へ引越しをして間もなく、in-kyoの開店準備をしていた頃のこと。三春は夜遅くまで営業をしている飲食店は少ないというのに、東京でお店をやっていた頃のクセがなかなか抜けず、その日もつい張り切って作業をしていたのだ。今ならベニマルでサッと食材を買って簡単にできるものを作ればいいと頭が切り替わるのだが、当時はまだ外食で済ませようと、唯一灯りのついているスナックへと入ってみたのだった。そのお店へはなかなか足が遠のいてしまったけれど、「花おこしの雨」は桜のつぼみが赤みを帯びてくると、毎年思い出す季節の言葉として刻まれた。
 「花おこしの雨」とは「催花雨」という言葉と同じく、開花寸前か開花直後に降るあたたかな雨のことで、桜などが花をほころばせる(目を覚ます)きっかけとなっていることからそう呼ばれているそうだ。気分が重くなりがちな雨空も、言葉ひとつで優しくなれるのだからなんて素敵なことなのだろう。
 
 今年(2021年)もいつものようにあたたな雨が降った。例年と違うことは、4月に入ってから降るはずの花おこしの雨が、3月の春分を過ぎた頃に大地をしっかりと湿らせたこと。例年ならばその後に粉雪が舞ったり、霜が降りるはずで、桜の季節はもう少し先。これで桜が開花するはずなどないだろうと、まだまだ油断をしていた。そんな風にすっかりわかった気になって、余裕で構えていた私を見透かすように、人間の想像をふわっと軽やかに飛び越えて、春が急にやって来たのだ。
 3月の末頃、自宅の庭から見える光岩寺の桜の枝先全体が、赤みを帯びてきたなぁなどと悠長に構えていたら、その2〜3日後にはふんわりとした淡いピンクの花をほころばせているではないか。嬉しい、けれどもどこか気持ちは複雑だ。長い冬が終わって、待ちに待った美しい季節がやって来たのだから、心からそのことを喜びたいというのに気持ちが追いついていかないのだ。そんな私をよそに、次々と花開く桜たちは山々に色を添え、町の中にも華やぎをもたらしている。その勢いに置いてきぼりにされないように、こちらも気持ちを急かして慌てながら一生懸命追いかける。
 近いのに訪れたことのなかった高乾院や馬頭観音に龍隠院、三春病院の裏手から田村高校のグラウンドを望む散策路での初めての桜。三春は坂を登って降りてという土地が多いからちょっと高台に行くだけで眺望が変わる。息を切らして登ればいい運動。そのご褒美のように桜が遠くで微笑んでいてくれる。車でほんの少し足を伸ばせば滝桜を筆頭に、名がつく町内の桜はもちろん、最寄りの西田町にある雪村桜や夫婦桜、たまたま通りがかった本宮市では菜の花畑に囲まれた塩ノ崎の大桜にも出会えて、帰りには源泉掛け流しの温泉にも寄ることができた。桜の見頃と休みの日が重なり、しかも天気は穏やかに晴れ渡ったお花見日和。慌てていた私をなだめるように、春の景色が目を喜ばせてくれる。

 in-kyoから歩いて数分の王子神社で、出勤前にひとりブランコに揺られながら桜の空を見上げていたら、慌てている自分がなんだかとても滑稽に思えてきた。必死になって追いかけたところで追いつくことなどできないのに、目の前のそのままを見て感じるだけでも十分なのに、私は一体何をやっていたんだろう。そう思った瞬間、何かからフワッと解放されたような気がした。童心に帰って漕いだブランコの功名かしら。マスクを外して思い切り深呼吸をし、春の空気を身体中に行き渡らせる。土の匂い、草の匂い、桜の幹からは心なしか桜餅のような香りもする。そして遠くでまだ咲いているのであろう、品のある梅の香りも風がどこからか運んで来て、ホーホケキョときれいな声で上手に鳴いているウグイスの声まで聞こえてくる。桜の開花が早まったお陰で、三春の名の由来の通り、今年は梅・桃・桜の三つの春がほぼほぼ同時に訪れたのだ。
 異常気象、温暖化など心配事は尽きない。それでも早くても遅くても、春はちゃんとやって来る。「いつものように」とつい人間都合で考えても抗う事はできないし、今年の春は今ここにあるということを自然に諭された気さえする。まだ、あともう少し、切なくなるほど美しいこの景色を目に焼きつけておこう。季節は進み花散らしの雨、「桜雨」が降れば、柔らかな緑の葉が芽吹き始める。もしも寂しい気持ちが湧いたときには、季節を慈しむように花や桜を添えた日本の言葉が、まぁるくあたたかなものでそっと包んでくれることでしょう。