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沈黙は金ではない。沈黙は死である。久し振りに演出家藤田俊太郎と対話して。

 演出家の藤田俊太郎さんと、公の場で話す機会があった。

 この五月、場所は、東京藝術大学上野校地第三講義室。
 印象に残った話がいくつかあるので、ここに書き記しておく。

 まず、コロナ禍の公演中止について。確かに藤田さんは、全面的な公演中止や打ち切りなど大きな被害を受けた演出家だと思う。振り返って「政府に演劇は必要がない」と彼は感じたというのである。

 この感想は演劇関係者や百貨店関係者に共有できる。なにか愚劣な政府、都の上層部が、演劇や百貨店をやりだまにあげて、自分の対策がいかに行われているかを証明するだけの材料にされていたと、私は思っている。

 この件は、歴史が証明すると思うが、当時の安倍総理、菅首相、小池都知事はその経歴を歴史化されるときに、汚点として記憶されるべきだろうと思う。
 感染を防止するのであれば、他に有効な手段があったことは、現在でも感染を専門とする学者のなかで、共通認識があると思う。経済を回すのであれば他の政策手段を断行すべきだったろうと思う。

 弱者虐めが、この時点では行われて、時の権力のために、演劇界や百貨店の業界が踏みにじられたとの思いが強い。現場でこの不条理を経験した藤田さんと、この話題をともにできて考えさせられた。

 また、このときの講義は半期のテーマとして「連帯と共有」が設定されていた。まあ、これまでも、テーマにはあまりこだわらずに、積極的な議論が行われてきた場である。以前にも藤田さんをお呼びしていたこともあり、この間の事情はよく事前にご理解いただけていただろうと思う。

 今回は、コロナ禍もあってか、ご自分過去に他の演出家が同じ戯曲を演出した作品の比較が主眼にあった。ひとつは、蜷川幸雄演出、井上ひさし作の『天保十二年のシェイクスピア』、もうひとつは、デヴィッド・ルヴォー演出の『nine』である。


 すでに定評がある世界的な巨匠と自分の演出を冒頭の数分であるとしても、比較するのはずいぶん勇気が必要だったろうと思う。
 このとき、藤田さんは、十年間、演出助手としてともに過ごした蜷川幸雄さんと、この講義で同席した舞台美術家の原田愛さんを意識して、「連帯」を表明したのだろうと思う。

 たいへんありがたい気づかいではあるが、私はこの「連帯と共有」について、強い違和感を持った。ありていにいえば、きれいごとだと思ったのである。

 私たちはコロナ禍以前から、分断を強いられている。コロナによって大きな揺さぶりがあったが、これは「連帯と共有」を望むのは理想ではあっても、現実はそのようには動かなかったと知っている。よく知っている。


 藤田さんとの話をする前に、蜷川幸雄さんとの共著『演出術』(ちくま文庫)を思い出していた。

 この本の中には、箴言というべき言葉がつまっているけれども「連帯を求めて、孤立を恐れず」との言葉が、六十年代から今まで、蜂起を求めてうずくまっていたように思もった。

 しかも、この発言があるのは、秋元松代作の『近松心中物語』についての章、その末尾である。

 少し長くなるが引用する。

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年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。