【劇評241】菊五郎劇団の将来と芝翫の色気
十月大歌舞伎を見渡すと、三部制がときに、現在、歌舞伎界が直面している問題をさらけだしているように思える。
もとより、歌舞伎座の番組は、大立者といわれる実力者が、それぞれ出し物を出していた。しかし、昼の部、夜の部の区切り出在れば、自分が芯を取る出し物以外の演目にも、「御馳走」のようなかたちで、付き合うことがあった。
「御馳走」ばかりではない。大立者と大立者が、ある種の境界を超えて共演し、話題を呼ぶことも、襲名や追善の興行ではあった。
現在の三部制は、感染予防のために、自分が出演している部をまたぐことは出来ない。
たとえば第二部の松緑は、第三部につきあうことが出来ない仕組みになっている。そのため、演目がレパートリーシアターとしてほぼ固定し、どこか身動きが取れない状態になっているように感じることがある。
さて、歌舞伎の現状についての雑感は、これくらいにして、第三部の批評に移る。
まずは、菊五郎劇団中心の『松竹梅湯島掛額』が出た。「吉祥院の場」と「火の見櫓の場」を、安政三年、黙阿弥がつなぎ合わせた趣向の演目である。
このまったく異なるふたつの芝居をつなぎ止めるのは、お七(尾上右近)と小姓吉三郎(隼人)の熱烈な恋情であるが、この縦糸がまったくといっていいほど、舞台上で見て取ることができない。
ありていにいえば、お七も吉三郎も、自己愛のなかに埋没しており、ふたりの関係性が見えてこない。関係性というのが曖昧であれば、会いたい、恋しい気持ちが伝わってこないのである。
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年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。