店をたたんだ父の一家は、子供のなかで唯一の成功者であるじぶんを頼ってくる。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第四十二回)
東京中央放送局の矢部謙次郎が、万太郎に文藝課長に就任しないかという口説き文句は、水上瀧太郎らに社会的にも肩をならべたい万太郎の隠された願望を解き放ったのである。
芥川龍之介の死
対談の発言を読み解くと、水上との関係と私生活の乱れが浮かび上がるが、作家生命を失うかもしれないこの決断は、後年の対談で苦笑まじりに語られるほど単純なものではなかった。
「放送局に入ってから」は、昭和六年十月、東京日日新聞に連載された随筆である。東京放送局に入った二ヶ月後に書かれたこの文章は、人気作家の転身に興味を持ったジャーナリズムに対する公式回答の意味を持つ。
六月、放送部長室。新谷真の栄転によって開いた文芸課長のポストを提示され、万太郎は即答しない。水上瀧太郎に相談すると、
「いゝぢやないか、やつてみたら……」と返答を得る。これは文壇全体とはいわないまでも、「三田文學」をめぐる人々に対して、水上によって就任のお墨付きを得たのだと弁解しているように思える。
七月には承諾。急に理事会が開かれ、急遽公式に発表となるとの電話を受けた。
ちやうどその日、芥川龍之介君の祥月命日で、夕方からいつものやうに田端の自笑軒にあつまることになつてゐました。その電話のあと、間もなくそのまゝわたくしは家を出ました。……と、わたくしのまだ、そこへ到達しないまへにすでに自笑軒に電話がかゝつてゐました。方々の新聞からです。(後略)
報道発表と命日の集まりが重なったのは、勿論偶然にすぎない。だとすれば、なぜ芥川の名前を、放送局入りの理由を語る文章のなかに、織り込まなければならなかったのか。
芥川の死を重く受け取るならば、俗事を書くにあたって、むしろその名を伏せるのが礼儀ではないか。
万太郎にとって、この偶然が、偶然のようには思えなかったのである。
年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。