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久保田万太郎、あるいは悪漢の涙

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今となっては、俳人としての名が高いけれど、久保田万太郎は、演劇評論家としてそのキャリアをはじめて、小説家、劇作家、演出家として昭和の演劇界に君臨する存在になりました。通して読むと…
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#戸主

芥川龍之介、売文に拍車がかかる最後の日々。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第四十三回)

 昭和二年、一月四日、芥川龍之介の姉ヒサの嫁ぎ先、西川豊の芝区南佐久間町の家が失火。  西川は保険金目当ての放火ではないかとの嫌疑を受け自殺した。  龍之介には、妻とふたりの子供があった。養子でありながら長男として、養父母と叔母、ヒサの子をあずかり、八人の扶養家族を養わなければならなかった。  西川の死によってさらに三人の家族が増えた。故人は年三割の利息がつく借金まで残した。  売文生活に拍車がかかる。  精神の病をかかえながらも、文を書き続けなければならない。  三月は「

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店をたたんだ父の一家は、子供のなかで唯一の成功者であるじぶんを頼ってくる。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第四十二回)

 東京中央放送局の矢部謙次郎が、万太郎に文藝課長に就任しないかという口説き文句は、水上瀧太郎らに社会的にも肩をならべたい万太郎の隠された願望を解き放ったのである。 芥川龍之介の死  対談の発言を読み解くと、水上との関係と私生活の乱れが浮かび上がるが、作家生命を失うかもしれないこの決断は、後年の対談で苦笑まじりに語られるほど単純なものではなかった。  「放送局に入ってから」は、昭和六年十月、東京日日新聞に連載された随筆である。東京放送局に入った二ヶ月後に書かれたこの文章は

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