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聖路加

 その昔、昭和の初め生まれでおしゃべり好きの義母につかまると、結構たいへんでした。何度も繰り返し聞いた話がいくつもあって、聖路加看護学校の話もそのひとつ。
 戦中、若い兵隊さんが戦死をするとその妻が食べられなくなり、今ではなかなか信じられないけれど所謂「妾奉公」にでるということが。それを見た義母の父はそれじゃ困ると、世界中どこでも生きていけるよう「産婆になれ」と娘に言ったとか。加えて、終戦近くになって米軍機からあるビラを撒かれたと。直ぐ回収されなかったことにされてしまったけれど、そこには「聖路加病院は爆撃しない」と書いてあったとかとか。
 話によると聖路加はキリスト教アメリカ聖公会の流れを汲むから、征服したらそのまま使いたいという内容だったらしいです。実際、終戦後の一時期、米陸軍病院として使われたことがあったよう。
 当時そんなこんなこともあり、家族で少なくとも一人は生き延びられる、そう言われて義母は聖路加へ入学。生徒の皆が同じということはなかったと思うけれど、実際のところ、その頃の聖路加看護学校は本来なら入学しなさそうな人達が溢れていて、とてもとても面白いトコロだったと。
「虚子の孫もいたのよ」義母のおしゃべりは絶好調になり、暗くはあっても若く輝かしい青春のオハナシ。

 そう、自分が俳句を作ってみるようになるなんて夢にも思わなかった時分に聞いた、義母の耳タコ話。その義母も他界しずいぶんたったころ、なにを間違ったかその真似事を始めてしまうと(勿論、義母は俳句などやらなかったのですが)、高浜さんとか、坊城さんとか、どこかで繰り返し聞いた名前がチラチラしてやりにくい。なるべくこのビッグネームには近寄らないようにしていました 。先生が、教えていただいていたカルチャーセンターで口酸っぱく虚子五句集を読むよう薦められても。
 それが最近になってようやく、岩波文庫の下を読んで、上も少しパラパラパラ・・・。

 きっと虚子自身も俳句の第一人者として、戦中はなんとしても皆を守り生き延びなければならなかったのかな、もしかしたらと、そんなふうに、なんとなく思ったのです。
 ふと、義母の顔を思い出す今日この頃なのでした。


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