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いのち【小説】

プロローグ

益田秀夫は、産婦人科の待合室で待機していた。待合室には、一人用のソファーが軍隊みたいに均等に並べられている。他の客は数人しかいない。僕を除く全ての客が妊婦さんだ。殆どの人が優しく自分のお腹をなでている。もうすぐ、僕の妻の体からも新しい命が産まれてくる。男の子である。名前はもう決めている。輝に人と書いて輝人。輝く人になって欲しいという思いから付けることにした。

妻の名前は益田優愛。旧姓は山宮優愛。少しブラウンのショートヘヤーが特徴。性格はボーイッシュな所がある。僕と同い年で、高校時代の同級生である。優愛と出会ったのはバレーボールの試合だった。高1の時、僕はクラスの友達の一人に誘われて、高校生同士の女子バレーボールの試合を見に行った。その試合は我が校の体育館で試合があった。バレーボールに興味のなかった僕は、友達の誘いを断ろうかと思っていた。でもその日は、なんとなく暇だったので、体育館の観客席で友達と話す目的で、誘いに乗ることにした。

バレーボールの試合は、我が校と我が校がある隣の市の学校との練習対戦だった。バレーボールのルールを知らない僕は、ただ黄色と青のボールを目で追っているだけだった。ボールが真ん中にあるネットを左右する。横に座っている友達と話そうとしたが、友達はバレーボールの試合というか、女子バレーボール選手の体を見ていた。目線が、ボールを捉えていなかったし、妙に興奮している。僕は、なるほどそういう目的で来ていたのかと思った。話しかけると迷惑そうに思われたので、僕は試合を見ることに集中した。僕は、友達みたいに、バレーボールをする彼女たちに性的な目を向ける目的で来たのではない。ただ、なんとなくバレーボールの試合を見ていただけなのだ。

ボールを目で追っていた僕は、ある一人の我が校の女子選手に目を向けた。ネットギリギリからボールを相手コートに入れる迫力に驚いた。ボールが床に当たるときの音も大きくて、迫力があった。後で分かったことだが、オープンスパイクという技らしい。その技を決めた選手が優愛だった。彼女のカッコよさに僕は瞬くままに恋に落ちた。僕は、試合終わりに彼女に話しかけた。試合に感激したことなど他愛のない話から会話は始まった。山宮優愛とは、同じ学年だったが、違うクラスだったからそれまで知らなかった。その日、山宮優愛と沢山話したが、それ以上のことは無かった。

時は流れて、新学年になった。高2になった僕は山宮優愛と同じクラスになった。その時、神様が運命を運んできてくれたと思った。僕は神を信じているわけじゃないが、無性に嬉しくなった。ある日、社会の授業で山宮優愛と同じ班になった時、僕は話しかけた。優愛も一年くらい前の試合後の会話を覚えていたようで、二人の話は弾んだ。それから二人はデートを重ねて、自然に付き合うことになった。

優愛と付き合い始めたのが、17歳の時だから、もう8年が経った。優愛は高校卒業後、バレーボールを辞めて、専門学校に通って美容師になった。僕は高卒後、普通の会社に就職した。二人は20代後半に突入した。キリがいい25歳の時に僕たちは結婚をした。それが一年前のことである。現在26歳。数ヶ月前、優愛に子供が出来た。昔から子供好きである優愛は、子供を産むことを決めた。もちろん、僕は父親になる覚悟を決めた。僕も子供が好きである。時は流れてトントン拍子に出産する予定日が近づいてきた。

出産予定日より10日早い今日。7月20日。自宅の台所でチャーハンを作っていた優愛が突然苦しみだした。優愛から会社に掛かってきた電話を受けた僕は、仕事を早退して、すぐに自宅に戻った。僕たちはタクシーを使って産婦人科まで行った。

それが6時間前のことである。僕は、ずっと待合室で待機している。赤ちゃんの声を聞こうと耳を済ませる。まだ、赤ちゃんの鳴き声は聞こえない。きっと優愛は苦しんでいるだろう。優愛と新しく産まれてくる息子の無事を祈って、両手を合わせて祈りを捧げた。目を瞑り、心を落ち着かせるが、今か今かと焦っている自分がいた。落ち着け。無事に産まれてくることが大切なのだ。どんなときも焦ってはいけない。焦ってはいけないと思いながらも、早く会いたいという思いは止まらなかった。

「オギャーオギャー」

数分後、産婦人科は赤ちゃんの鳴き声で包まれた。これが、僕の子供の声。僕は目を開いて、顔を上げた。産まれてきた。僕は安堵で、息を吐いた。嬉しさがこみ上げてきた。ついに、新しい生命が誕生した。早く、会ってみたい。会って、優しく抱っこして包み込んであげたい。

20分後。

僕は、病室で赤ちゃんを抱っこしていた。体重は3170g。身長は50.4cm。優愛は抱っこする僕を見て、優しく微笑んでいる。優愛の幸せいっぱいという表情に安堵した。僕も同じデレデレ顔をしているのだろう。ゆっくりと揺らしてあげると、笑う赤ちゃん。赤ちゃんの笑顔はこちらまで幸せを運んでくる。僕は小さく涙を流した。幸せの瞬間を感じた。これが、幸せなのか。

しばらく抱っこしていると、病室の扉が開いた。入ってきたのは、銀色の眼鏡を掛けた白衣の男性だった。年齢は40代後半くらいか。やけに身長が高い。産婦人科の医師だろう。

「益田さんですね。ちょっと、診察室まで来てほしいのですが」

医師は徐ろに口を開いた。僕は嫌な予感がした。優愛と赤ちゃんを残して、僕は医師の後ろに付いていった。薄暗い廊下を歩きながら、その銀色眼鏡を掛けた医師は霜原と名乗った。この産婦人科の院長らしい。

シンプルなデザインの診察室で二人は向かい合った。他に誰も居ない。診察室は簡易的な椅子と机くらいしかない、こじんまりとした空間。周りは音一つない。

「益田さん、真剣に聞いてください」

霧原は深刻そうな顔をして、話を始めた。僕の頭の中は嫌な予感で埋め尽くされている。

「あなたの赤ちゃんが死亡する年齢が分かりました」

何を言っているのだ?僕の頭の中は戸惑いで埋め尽くされた。霧原は、眼鏡越しに目をそらさずに見てくる。僕も睨みを利かすように見返す。

「え?」

「驚くのは無理もない。政府は、正確にいうと政府の研究機関が、赤ちゃんが産まれた時に、その赤ちゃんが死亡する年齢が分かる技術を開発したのです」

「死亡する年齢?」

「そうです。赤ちゃんが生まれた時の体重、身長、両親の特徴、DNAなどのデータから、その赤ちゃんが、何歳で死亡するか分かる技術を開発したのです」

「そんな……。ネットを見る方ですが、そんな技術を開発されたというニュースを見たことないのですが」

「まだ、公表はしていません。あなたの赤ちゃんが、この技術の研究データになりました」

「なぜ、僕の息子が?」

「実験には承諾が必要です。しかし、殆どの人は『人権侵害だ!』となるでしょう。それでは物事は進まない。政府からの通達で、我が産婦人科がランダムで選ばれたのです。平均的な夫婦の特徴を調べた所、あなたの赤ちゃんが該当しました。選ぶことは益田優愛様が通院し始めた数ヶ月前から決まっていました」

「息子に何かあったらどう責任を取るつもりですか!」

「赤ちゃんに後遺症などの影響が出ないようにしています。赤ちゃんの身体に触れている訳ではありません。赤ちゃんのデータから死亡する年齢が分かるのです。あくまでも赤ちゃんのデータから算出されたのです」

「狂っている。あなた方にとっては研究材料の一つかもしれないですが、僕にとって最愛の子供なんです」

「我々は政府の通達に従ったまでです。結果はすぐに出ました。貴方の赤ちゃんが、何歳で死亡するか聞きたいですか?」

 「聞きたい訳ないだろう!ふざけるのもいいかげんにしろ!」

「そうですか……。分かりました。何歳で死亡するかは確定です。それまで、亡くなることはありませんし、回避することも出来ません。知りたくなったら、問い合わせにお答えします。以上です」

言いたいことだけ言って、霧原は逃げるように部屋を後にした。僕は戸惑いと怒りで頭が爆発しそうになった。何歳で死ぬ?いくら技術が進歩していると言っても、そんなことが分かるのか。しかし、冗談で言っている雰囲気ではなかった。一瞬、僕の息子が何歳で死ぬのか気になった。もし、それが正確で覆すことが出来ないのなら、知ったら悲しみが増えるだけだ。僕は絶対に聞かないぞ。

いのち

益田輝人は、集中するために息を整えた。今、輝人が見ているものは前方向にあるゴールだけ。一直線に伸びる赤色のトラック。太陽の光が、空間を歪ましている。100m先を見据えて、スターティングブロック、通称スタブロに両足を付けた。両手を斜め前に出してスタート位置に付いた。走るコースは一番真ん中。観客席からは歓声が聞こえる。

輝人は柏市にキャンパスがある碧北大学1年生である。初出場ながら、この千葉県学生陸上競技選手権大会100mの部で優勝候補と言われている。ここは千葉市にある陸上競技場。ここで、千葉県学生陸上競技選手権大会の決勝が行われている。決戦まで勝ち抜いてきた輝人は優勝の二文字を確信していた。

この大会で優勝を決める。輝人は自信に溢れていた。100mの部で優勝して、コーチや両親を喜ばせるのだ。今思えば、ここまでたどり着いたのは奇跡だった。予選を次々に突破していって、決勝まで行けた。これは盛大なドッキリなんじゃないかと思うこともあった。決勝試合が始まる前のウォーミングアップの時もドッキリなんじゃないかと疑う。試合が始まるアナウンスが流れた。

『位置について』の合図で左足の膝をついて、スタート姿勢を取った。次に、『用意』の合図で左足を浮かして腰を上げた。その瞬間、競技場内は静寂に包まれた。

号砲が乾いた音を立てて鳴った。スタブロを蹴るように、ズタブロから足を離した。輝人は真っ直ぐに走り出した。足と腕を前後する。その瞬間に音が消えた。この瞬間は自分の世界だ。僕以外が世界から消えたように、一人の感覚になった。ただ前を見て、走ることに集中した。他の選手を引き離し気がする。トップは自分だ。真っ直ぐなトラックを走りながら全ての力を出し切った。

輝人は一番にフィニッシュした。歓声が徐々に大きくなる。輝人は徐々にスピードを緩めながら止まった。汗が体を支配していく。

記録が出た。モニターに映し出された数字は黄色の電子文字で10秒31と表示されていた。追い風は秒速1.2m。2.0mを超えていないので、追い風参考記録ではない。その瞬間、輝人の優勝が決まった。輝人は嬉しさでガッツポーズをしてトラックの上に跪いた。優勝の二文字を頭の中で反芻していた。


表彰式を終えて、更衣室で着替えた。男の汗の臭さが充満した更衣室には輝人以外に誰も居ない。ベンチで座っていると輝人の彼女から電話が来た。輝人の彼女の名前は、桜田美怜。同じ大学の同い年で同学年だ。誕生日も同じ7月生まれである。出会ったのは友達の紹介だった。明るくて活発、スタイルの良い美怜は現役大学生の読者モデルとしても活躍している。

『もしもし、試合どうだった?』

美怜は、雑誌の撮影で、輝人の試合に来られなかった。撮影現場は東京のおしゃれな街らしい。あまり東京に行かないから知らないが。今も撮影現場から掛けているようだ。周辺の騒がしい音がかすかに聞こえる。

「優勝したよ」

『ほんと?すごいじゃん。おめでとう!』

「うん。俺、陸上部の打ち上げがあるから今日は美怜の家、行けないわ。ごめん」

『そう……。じゃあ、いつでも来てね』

輝人は電話を切った。美怜には申し訳ないが、陸上部の打ち上げは半強制的なのだ。あまり打ち上げには参加しないようしたいが、部のルールには従うしかない。次に両親に優勝報告をしよう。電話をかける。

『もしもし?輝人?どうだった?』

母の優愛に電話を掛けた。母は、近所の小学生バレーボールチームのコーチをしている。今日は母がコーチしているチームの試合だったから試合を見に来ていない。なんでも昔はバレーボール部だったらしい。今は美容院のパートをしている。

「ああ、優勝したよ」

『本当に?おめでとう』

「また帰ってから話すわ」

父にも電話しようと思ったが、今の時間は会社なので、電話を控えた。父は小さな清掃会社に勤めている。ビルの清掃などを担当している。清掃中はロッカーに携帯を預けているから、電話しても出ることが出来ないだろう。それに、あとで母が父に話すだろう。

携帯でネットを見ていると、更衣室のドアがノックされた。ゆっくりとドアを開けて入ってきたのは、ジャージ姿のコーチ、田所だった。田所は大学の陸上部コーチで、元陸上選手。年齢は40歳。40歳という年齢の割には若く見える。

「輝人、よくやったぞ。俺は凄く嬉しいぞ。卒業したら陸上選手として活躍出来るぞ。継続は力なりだぞ」

田所は語尾に『ぞ』を付けるクセがある。とこどころクセのある人だ。

「これもコーチのおかげです。ありがとうございます」

「輝人も打ち上げに行くだろう?22時に居酒屋『テッちゃん』だぞ。遅刻するなよ」

どうやら、打ち上げに来るか確認しに来たようだ。ここで『行かない』という返答は出来ない。田所は、そう言って更衣室を後にした。輝人も、ジムに行って体を鍛えてから打ち上げに行くので、足早に更衣室を後にした。


居酒屋『テッちゃん』で打ち上げが終わった。陸上部の仲間やマネージャーに囲まれながら、飲んだり食べたりした。柏市内にある自宅に戻ったのは日付を超えていた。こんなに遅くなるのは打ち上げの時だけだ。家に帰るなり、母はおめでとうと言った。

「父さんは?」

「居間で酒を飲んでるわ。めったに酒なんて飲まないのに。よっぽど嬉しかったんでしょうね」

輝人は居間に行った。畳の居間では父が、ちゃぶ台の前に座って酒を飲んでいた。テレビでは野球中継が流れている。小さなちゃぶ台の上には大きい日本酒が一本置かれていた。その日本酒の中身は半分しか残っていない。それとコップ。

「おう!輝人!おかえり。優勝したそうだな」

顔を真っ赤にしながら父は言った。何年も同じ服を着ているので、ヨレヨレになっている。輝人は父の前に座った。

「優勝したよ。僕がんばったよ」

「よかったな。父さんは嬉しいぞ」

「お酒、そのへんにしといたら?」

「ああ。なあ輝人。生きるってなんだろうな?」

「急にどうしたの?父さんらしくないぜ」

「もしさ、自分の運命が決まっていたら輝人はどうする?」

「自分の運命?」

「そうだ。いつ死ぬかって決まっていたら、残された時間は何をする?」

「死亡年齢が決まっていたら?そうだな、それまでの時間を大切に使って最後まで人生を楽しむかな」

「そうか」

そう言って、父はちゃぶ台に突っ伏して眠りについた。なぜ父は急に『生きる』について話しだしたんだろう。これまで、父は『生きる』について話すことは無かった。そもそも、真剣な話題自体が少ない。酒に酔っている時は、スポーツの話題しか話さなかった。2階にある自分の部屋に入りながら考える。色々な想像を働かしていると輝人も疲れから眠りについていった。


翌朝、輝人はカーテン越しに入ってくる朝の光で目を覚ました。今日も一日が始まる。今日の午前中は陸上部のトレーニングをして、夕方から夜までは美怜の家に遊びに行く予定だ。美怜は北海道から出てきて一人暮らしをしている。1DKという小さなアパートで殺風景な部屋だけど、住んでいる美怜が輝いている。小さな台所で、作ってくれる美怜のグラタンは美味しい。

歯を磨こうと1階に降りた。居間を覗くと父の姿は無かった。会社に行ったのだろう。母は、朝からジョギングに出かけている。昼には帰ってきて、昼飯を食べてからパートに出る。今、家に居るのは輝人だけだ。洗面台に行こうとしたとき、ちゃぶ台の下に、ハガキみたいな白い紙が落ちているのを見つけた。居間に入って、その紙を拾い上げた。その紙には

『益田輝人君の件について

単刀直入に言うと輝人君の死亡年齢についてです。あれから19年の時が経ちましたね。時の流れは早いものです。誠に言いにくいことなのですが、輝人君はもうすぐ亡くなります。いつかは言わないと思い19年が経ちました。輝人君は20歳で亡くなります。死因は突然の心臓発作です。私は秘密にすることが出来なかった。いつ死亡するか分かっていて、黙っているのは私にとっては職業柄、出来ないのです。輝人君が死亡年齢に近づくに連れて耐えられなくなりました。この事実を伝えたことをお許しください。

霧原産婦人科・霧原信介』

読んでいく内に手が震えた。何だこれは?自分のことが書かれている。自分は20歳で死ぬ?突然の心臓発作?冗談にしてはリアリティーすぎる。父親宛に出されている。差出人は産婦人科の院長。『あれから19年の時が…』ということは輝人が産まれてから死亡年齢が分かっていたのか?どうして、死亡年齢が分かるのだ。現代の技術、いや自分が産まれた時に分かったなら19年前から技術はあったのか。そんな技術を聞いたことは無かった。ネットでも話題になっていない。どちらにせよ、父はこのことを知っていた。知っていたからこそ、昨日の話をしたのだ。そう思うと震えてきた。自分が、もうすぐ死ぬのだ。差出人である霧原院長に説明を聞くしかない。ハガキを元の位置に置いた。美怜の家に行くのは、また今度に決めた。

霧原産婦人科は、古びた建物だった。かつて白色だったであろう壁は、卵の殻を割ったようにヒビが無数に入っている。そんなに大きくはない、こじんまりとした建物であった。いかにも地元の産婦人科という建物。輝人は、本当に産婦人科どうか確認しながら入った。自動ドアの横には『霧原産婦人科』と書かれている。その文字は薄れていて、なんとか読める程度だ。

中に入ると、待合室があった。待合室は均等に並べたソファーがあった。ソファーには数人の女性が座っている。自動ドアを通って真正面の受付カウンターには中年のおばさんが一人だけ座っていた。

「あの、霧原院長に会いたいのですが……」

「どういったご用件でしょうか?」

その中年のおばさんは、輝人を不思議そうな目で見ている。

「自分、益田輝人と言います。僕の名前と話したいことがあると院長に伝えて欲しいです」

「少々お待ち下さい」

そのおばさんは、怠そうにしながら左隣の部屋に消えていった。ここに立っていてもどうしようもないので、ソファーに座ることにした。何分経っただろうか?受付けカウンターの下に並べてある育児本を見ていると、

「益田輝人君だね?」

と声をかけてきた。顔を上げると斜め右に、白衣を着た60代後半くらいの男性が立っていた。やけに身長が高い。180cm後半くらいか。銀色の眼鏡を掛けている。霧原院長だろう。

「そうです。お話があって来ました」

「私が霧原です。ここでは何だから、診察室に行こうか」

霧原に連れられて、診察室まで向かった。その時、ソファーに座っている一人の女性と目があった。検査に来た妊婦さんだろう。その女性は輝人に好奇の目を向けていた。今の自分は他人にどう見られているのだろうか?そんな目を気にしながらも霧原の後をついて行く。

診察室は小さな部屋だった。シンプルなデザインをしている。向き合って二人は座る。最初に口を開いたのは霧原院長だった。

「君が、ここに着た理由は大体想像出来る。言ってみてもいいかね?」

「お願いします」

「私が君のお父さんにハガキを送った。その内容を偶然にも君が見てしまった。真実を確かめる為に君は来た」

「どうして僕が偶然に内容を見たと分かったんです?」

「ハガキを見て真実を知った君のお父さんは、君にそんな残酷なことを言うだろうか?」

「・・・・」

「君の死亡年齢が分かった経緯について話してもいいかね」

「真実を知りたいです。お願いします」

「20年前、君が産まれる少し前に、政府の研究機関は死亡年齢を推測出来る技術を開発した。推測といってもほぼ正確だ。当時は実験台は少なかった。政府はランダムに実験台を選んだ。その実験台になったのが君だよ」

「僕が実験台?他に実験台になった人が何人か居るんですか?」

「正確な数は分からないが、全国で数人は居るだろう。その中には、死亡年齢を知りたいという親もいたようだ」

「どうして政府は、そんな技術を開発したんでしょうか?」

「一言で言うのなら、死亡年齢を知って、それまでの人生を充実してもらいたいというのが、この技術の目的のようだ。そして、死亡年齢を知ったその本人はどう生きるのかを研究したいのだろう。政府の考えは少しズレているのが私の印象だ」

「死亡年齢は治療とかで伸ばしたり出来ないのでしょうか?」

「死亡年齢は確実で、その年齢になった瞬間、分かりやすく言えば、その人の誕生日から次の誕生日の前までの1年以内に死ぬことが決まっている」

「そんな……。でも、僕はもうすぐ死ぬんですよね。早すぎる」

「君の場合は、早く死亡することが分かった。だから私は、すぐに君の両親に伝えたかった。しかし、君の父は知ることを拒否した。あれから19年の間に実験台になった数人の人に、死亡年齢を伝えることもあった。その時に死亡年齢の短い君のことが頭に離れなかった。他の人は、大体平均寿命前後だったからね」

「あと1年しか生きられない。僕の命は1年……」

言葉を繰り返した。次第に涙が溢れてきた。この19年間、自分の死を感じたことは無かった。いっそのこと知らずに死にたかった。この死亡年齢は変えることが出来ないと言われた。残された時間を大切にしないと。政府の策略にハマっている自分に気づいた。残された時間が短ければ短いほど大切にしようと思う。大切にするには人生を充実にさせることだ。まさに、政府の策略通りに人は思い、人生を充実させようと行動するのだろう。

「父と母には、僕が来たことを言わないで欲しいです。お願いします」

輝人は頭を下げた。

「私もその方がいいと思っている。私から言えるのは、死亡年齢だけだ。残りの人生をどうするかは君次第だ」


霧原産婦人科を後にした輝人は、ふらふらと街を歩いていた。周りを見れば、いつもと変わらぬ風景。散歩する中年のおじさん、ランニングをする30代のお兄さん。道路の真ん中で井戸端会議する近所のおばさんたち。いつもと変わらない日常。あの人やこの人は自分の死亡年齢を知らない時代に産まれてきたのだろう。自分は自分の運命を知っている。そう思うと自分自身が不思議な人間だと思った。エスパーになった気分になる。

輝人はまだまだ生きたいと思った。もうすぐ誕生日を迎える。今日の日付7月15日と誕生日の日付7月20日を引くと、あと5日。あと5日経つと、死亡年齢になる。誕生日から1年の間に確実に死ぬ。

輝人は自分が残された命をどう使うか考えながら歩いた。自分の死亡年齢を知った時、絶望している場合じゃないと思った。いくら絶望したからといって、死亡年齢が伸びるわけじゃない。こういう運命なら仕方がない。

自分が最後までしたいことを考える。脳裏に浮かんできたのは『走る』ことであった。そうだ『走る』ことだ。自分が死ぬギリギリまで、走ることが自分を表現出来るのではないか。漫才師が舞台の上で死にたいと語るように自分とは何かを考えた。霧原院長から来たハガキにも『突然の心臓発作で死亡する』と書いていた。運命は変えられない。何もせずに日常で心臓発作を起こして死ぬより、走っている最中で死んだ方がいい。その方があの世でも自分の好きなことである『走り』を続けることが出来るのではないか?


5日後、輝人は20歳の誕生日を迎えた。輝人は両親の元気が段々と無くなっているのを知っている。理由は、自分が1年以内に確実に死ぬことを両親は分かっているからだろう。自分は両親を元気にすることが出来ない。両親は自分に真実を伝えないだろう。両親は自分が死亡年齢を知っているとは思っていないだろう。

これから、出来る限り大学のグラウンドで走ることにした。走りすぎて、コーチの田所に心配される程だ。それでも夜遅くなっても、雨の日でも、その日の体力がある限り走る。走ると心が落ち着くのだ。走ると生きていると実感することが出来る。

輝人は美怜の家に行くことを決めた。誕生日を迎えてから1週間は走ることばかりに集中していて、美怜の家に行くことが出来なかった。美怜に自分の死亡年齢について話すんだ。いつ死んでもおかしくない状況だからこそ、早く愛する人に伝えなければ。

美怜のアパートに着いた。小さなアパートだ。美玲には事前に行くことを伝えてある。小さなアパートのドアをノックした。少しして、ドアの内側から美怜の声が聞こえた。

「輝人?」

「うん」

古い木製のドアが開いた。中からジャージ姿の美怜が現れた。

「……久しぶり」

「……久しぶり。ごめん、全然会うことが出来なくて」

輝人は謝りながら部屋に入った。部屋はモデルの部屋らしく、色々な服や物が置かれていた。きちんと整理されていているので物が多い割には部屋の中はキレイだ。美玲が冷蔵庫の中からジュースを取り出した。机の上に置く。二人は小さな机に向かい合った。

「話があるんだ」

「何?話って?」

「美怜、よく聞いてほしい。これは冗談でもなんでもないんだ。実は……」

輝人は、自分の死亡年齢について話した。自分の死亡年齢を知った経緯、霧原院長との会話。殆どすべてを打ち明けた。美怜の美しい瞳は話し終えるまで驚きに満ちていた。

「実は私も死亡年齢の実験台だったんだ」

「え……?」

「私は自分の死亡年齢を知っている」

衝撃だった。美怜も同じ実験台になっていたのか。霧原院長の話では、全国で数人しか実験台になっていないというのだから、二人が実験台になっているのは偶然というか奇跡に近かった。自ずと美怜の死亡年齢が何歳か気になった。しかし、それを聞くことは出来ない。あまりにも失礼過ぎる。聞きたいと聞きたくないが交差する。

「何歳で亡くなるか同時に言わない?」

輝人は美怜に打ち明けるとき、何歳で亡くなるという肝心な部分は言えなかった。カミングアウトするには丁度いい機会だと思った。二人は『せーの』という掛け声で言うことに決めた。

「せーの」

「20歳」「89歳」

と声が重なった。

「嘘……」

美怜は驚きで口をあんぐりと明けた。ファッション誌では絶対見せない表情。美玲の驚きと同時に、輝人は美玲が長生きすることに安堵した。

「本当なんだ。俺はもうすぐ死ぬ」

「もうすぐ死んじゃうの?嫌だよ輝人。どうして?ねえどうして?」

「運命は変えられないんだよ」

「輝人……」

「美怜はいいじゃないか。長いこと生きれて。僕なんか短い命なんだから。羨ましいよ」

「バカ!どんな短い命でも1秒1秒を大切に過ごそうと思わないの?」

「美怜には分からないよ。長く生きれることを分かっている人に短い人生の僕の気持ちなんか分からないよ!」

少しの沈黙。流し台から水がポトポトと落ちる音が聞こえた。美怜は涙を流し、玄関から外に走って出ていった。我に返った輝人は同じように部屋を出て、美怜の後を追いかけた。

見慣れた街を走る。まるで陸上のトレーニングみたいだと思った。美怜を怒らせてしまった。どうして自分はバカなんだろう。いつ死ぬか分からない思いから、美玲の優しさに気づかなかった。ひどい言葉を浴びせてしまった。罪悪感で胸の動悸が激しくなる。

美怜の姿が視界に入った。美怜は裸足でアスファルトの上を走っている。その姿を見て、自分も同じく靴を履いていないことに気づいた。段々と息がしづらくなってきた。太陽の日差しが熱い。そういえば、過去最高気温を出したというニュースが頭をかすめた。頭が朦朧として、どんどんと意識がなくなってきた。心臓が激しく波打つ。胸を上下する回数が多くなる。足のスピードがどんどん遅くなる。美玲との距離が遠くなる。まるで二人の心の距離みたいに遠くなっていく。足がふらついて、止まった。アスファルトの上に倒れ込む。胸を抑えて呼吸をする。息を吐いたりしているが、苦しくて、もがく。視界がどんどんぼやけてくる。ああ、これが最後の景色なんだな。

これまでの思い出が、走馬灯のように駆け巡った。優しい母とおおらかな父の姿が映る。コーチの田所さん、近所のおばさんたち。友達、美玲。それぞれの思い出が頭の中で駆け巡る。生きたい、生きたい!輝人は、心臓が止まる最後の一秒まで「生きたい」と心の中で叫び続けた。

エピローグ

益田秀夫は、病院から掛かってきた電話で息子の輝人が路上で心臓発作で倒れたと聞いた。丁度、清掃の休憩時間だった。連絡を受けた僕は清掃会社を早退して、タクシーに乗って、その病院に向かった。頭の中は死亡年齢という言葉を反芻していた。

受付けで輝人の名前を言って、看護師に病室まで案内された。病室のベットには白い布を被せられた輝人の姿があった。僕は叫びたくなる衝動を抑えた。少しずつ輝人に近づく。ベットを囲っているのは妻である優愛と、30代後半くらいの白衣の医者、20歳前後だろうか美しい女性が居た。

「あなた……」

優愛は僕に顔を向けながら、首を振った。その表情は悲しみに満ちていた。僕も同じ顔をしているだろう。やっぱり、いつ亡くなるか知っていても悲しみは大きい。結局、こうなる運命だったんだ。僕は輝人の顔に被せられている白い布を見た時から、どうなったか分かっていた。

「この方は輝人の彼女である桜田美怜さんです」

優愛の紹介で、桜田美怜はペコリと頭を下げた。ジャージ姿の彼女は読者モデルのようにスタイルがいい。輝人にこんなカワイイ彼女が居たのか。全然知らなかった自分を恥じた。

「私のせいなんです」

桜田美怜が泣きながら話し始めた。桜田美怜の部屋で輝人と喧嘩して、怒った桜田美怜が出ていった。その後を追った輝人は心臓発作を起こした。輝人の前を走っていた彼女は輝人に酷いことを言ってしまったと思い、彼に謝ろうとアパートに帰ることにした。帰り道に輝人が倒れているのを発見して、救急車を呼んだ。彼女は自分のせいだと泣き崩れている。優愛は桜田美怜の両肩に手を置いて、慰めている。そんな彼女に慰めの声をかけることも出来ずに僕は立っていることしか出来なかった。

輝人が亡くなる2週間前、霧原院長から来たハガキを読んだとき、体のすべてが震えた。こんなに早く亡くなるなんて思ってなかった。正直、平均寿命は生きると思っていた。やっぱり、19年前、輝人が産まれた時に聞いておけば、輝人が生きている時間である20年間をもっと充実させることが出来たかもしれない。

結局、輝人に真実を伝えればどうなっていたのだろうか?絶望しただろうか?それとも、その期間を大切に過ごすことにしただろうか?輝人は、この短い人生の中で幸せだっただろうか?僕の頭の中は問いかけで埋め尽くされた。僕は、輝人が幸せだったと願いたい。そして、天国でも輝人が陸上選手として走り続けることを祈った。あの産婦人科で、赤ちゃんの鳴き声を聞くまでの間に祈ったように、目を瞑り、両手を合わせて祈りを捧げた。

〜作者からのメッセージ〜
もし死亡年齢が分かっていたら、その年齢まで、読者ならどう過ごすだろうか?タイトルにある通り、この作品は『いのち』がテーマだ。この物語はもちろんフィクションで、そんな死亡年齢が分かる技術は無い。人生ってなんだろうと考える時が周期的にある。どんなに長く生きても短く生きても充実度が大切だと思う。人間はいつ死ぬか分からないのだ。この世に生を預けてから、いつか死が訪れることが決まる。いつ死んでも悔いが残らないように楽しみ悲しみ、分かち合い、過ごしていく。それが生きる意味だと思う。生きていると楽しいこともあるだろうし、悲しいこともある。それを波と僕は考えている。その波をどう乗り越えて人生を過ごすかが生きる上での重要なことだと思う。死ぬときに人生の大切さに気付いては、遅すぎるのだ。

植田晴人
偽名。作者からのメッセージは名言ぽく書いてみました。ちょっと痛いですが、ご了承ください。