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今日、嬉しいことがあったよ


こんにちは。

実は、個人的に嬉しいことがありました。

でもその嬉しい!という気持ちを、誰にも話さずに自分の中にこっそり留めておこうとしたんです。

わたしの中に溢れている喜びを誰かに共有するためには、こうなるまでに至った経緯を細かく話す必要がある。

そうしないと、どうしてわたしがこんなに嬉しいのかわかってもらえないと思うから。
それに、話すんならとことん話したい…!

だけど、果たしてそれだけの熱量の話を、誰かに受け止めてもらっていいのかな?

興味がなかったらつまらないだろうし、そんな空気感の中話し続ける強いメンタルもない。
何よりこの心に溢れる熱量を、わたし自身上手く伝えられるのだろうか…?

そんなことを瞬時に考えて、結局「誰にも話さない」選択をとっているのだと思います。
 
 
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だけど振り返ってみれば、前のわたしは全く正反対の行動を選ぶタイプでした。

わたしは幼い頃から学生時代…いや、20代前半くらいまで、ついつい何でも話したくなる性分で。

小学生や中学生の頃は好きな人が変わる度(この頃って些細なことでもキュンとして、これって恋!?なんて思ったりしますよね…わたしだけですか…?笑)に友達に大公開。

大学、社会人になると新しい夢を見つけたり、著名人の言葉に感銘を受けて心動かされたり、ことあるごとに暑苦しい熱意をSNSに長文投稿。

少し大人になった今振り返ると、それもそれでわたしらしいなとなんだか愛おしく思えるのですが…

ここに至るまで、そんな自分を恥ずかしく思うタイミングがありました。
 
 
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そもそも付き合ったのならまだしも、わたしが日替わりで好きになった人の話なんて、知りたい人がいたのか?むしろ惚れっぽいと引かれていたんじゃ…?

いちいち暑苦しい投稿をして、意識高い系だとか長文うっとおしいとか、思われていたんじゃ…?

なんだか悪い意味で視野が広くなり、他人の目を気にしすぎるようになってしまったんだと思います。

「他人にどう思われるか反応を伺うのも煩わしいから、思いは心に秘めるようにしよう…。」

20代後半くらいから、そんな行動をとるようになったのです。
 
 
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これに関していいとか悪いとか、一概にどちらがいいとは言えないのかなと思います。

少し自分らしさを失ったような気がして寂しいけれど、その分他人の目を気にする回数も減り生きやすくなりました。

その人その人に合ったやり方で、発言や発信のチョイスを選べばいいんだろうなと。

ただ最近思ったのは「自分だけの中に秘める」のは、やっぱり少しだけ寂しいのかもしれない。

両親でも兄弟でも、恋人でも友人でも夫でも。

自分の身近にいて大切に思ってくれている人なら、もしかしたら何でも聞きたいと思ってくれているのかもしれない。

そんな風に感じるようになりました。

別に暑苦しくても意識高い系でも話にまとまりがなくても、その人が感じた気持ちを共有してくれることを嬉しく思う。
共有したいと思ってもらえたことが、なんだか心地いい。

わたしにも、そう思える相手がいるなぁと気づいたんです。
 
 
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とまぁ、noteに書くため言語化したので、素敵なことに気がついたような雰囲気を出しておりますが…

単純に、「わからなくても聞いてもらおう、話したいし!」と珍しく思ったのがきっかけで、夫にさくっと話してみたんです。
(やっと冒頭の話に戻ります!お待たせしすぎました!)

夫はわたしの嬉しかった内容について、1ミリも知らなかったので説明が大半になってしまい…

話してる最中も、「興味ないかな?説明長くなっちゃったし、やっぱり話すのやめればよかったかな~」なんて悶々考えたりもしました。

でも…

「え!?すごい、やったじゃん!」

想像していた以上の反応をくれて、元々嬉しかった気持ちが何倍も膨れ上がったのを感じました。

内容がよくわからなくても、身近な人はわたしが嬉しいと一緒に喜んでくれるんだ。

そして、誰かに喜んでもらえると、わたしももっともっと嬉しくなるんだ。

…当たり前のようで当たり前じゃない、心温まる気づきを得ることができました。

そしてこれからはもっと、嬉しいことを中心に身近な人におしゃべりしていこうと思った次第です。

嬉しいことがあったおかげで、身近な人に嬉しい話ができて、さらに嬉しいことに気がついた。

嬉しいの連鎖、最高です🌿👏🏻

最後までご覧いただき、ありがとうございました。

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