『美山考』南丹市美山町の地域史についての考察 [241016]
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241016 表5 に「原峠:旧府道19」を追記
241014「別表.美山地域の沿革」に現地確認が済んだ神社・寺院の社寺番号を追記(赤文字部分)
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1. はじめに
会社を定年退職した頃から古代史への興味が数十年ぶりに再燃し、ここのところ近隣各地で開催される古代史セミナーを見つけては聴講していた。
そんな折、2023年12月末に、京都府亀岡市にある ガレリアかめおか で開催された古代史セミナーを聴講し「丹波国桑田郡」に多くの古墳があることを知った。
それをきっかけに「丹波国桑田郡」の先史古代史について興味をもつようになり、近隣の博物館見学や、美山図書室などでの郷土誌閲覧を通じて、古墳や遺跡が集中して存在する地域(或は、全く存在しない地域)、そこから出土した遺物について少しばかり知識を得ることができた。
また、美山ふれあい広場を訪れた際、ビレッジセンターの売店でたまたま目に留まった小冊子「美山伝承の旅」を入手し、美山町内の各地域に、古代から近世まで様々な伝承が残ることを知った。
南丹市美山町の、春夏秋冬の美しい風土に心惹かれ、折に触れて訪れるようになってから 30年ほどが経つ。
今更ながらのこととは思いつつも、当地の地域史を少しでも知ることができれば、これまで目に留まらなかった、知らなかった新しい発見をするよいきっかけになり、当地を訪れる楽しみが更に増すのではないかと思い、本考察を試みることにした。
2. 文献
本考察を進めるにあたり、図書館やインターネットで参照した関連資料を末尾に掲載する。
多種多様な資料がある中に、郷土愛に満ちた私的な著書が多くある一方で、所謂公的な郷土誌の編纂が数度に渡り成されてきたことが分かり、それらを表1に抜粋した。
そのなかで「京都府北桑田郡誌」は、一部内容の証左が問われる部分はあるものの、同誌が発刊された大正12年当時からそれ以前の美山地域史を網羅する貴重な資料であるように思われる。
「京都府北桑田郡誌」は国立国会図書館デジタルコレクションで公開され、いつでも容易にオンライン閲覧できることもあり、同誌を軸にして他の資料で補完する手順で本考察を進めることにした。
3. 丹波国
「丹波」の古来の呼称は「タニハ」と言われ、古事記の一部には「旦波」、日本書紀で「丹波」の漢字が当てられている。
その他には「谷端」や「田庭」(諸国名義考)など文字の意味に由来するものや、「太邇波」(和名抄)のような発音文字が当てられている史料もあるが、概ね「丹波」の文字が使われているようである。
また、「京都府北桑田郡誌」では、「上古この国は湖水にしてその色赤かりしとなん大山咋神鍬にて川を掘り給ひしより、人住む邦となりしを国の名として丹波国(あかなみのくに)とは号けし」を紹介し、別の口碑では、古代亀岡盆地にあった大きな池の水の色は、退治された大蛇の血で赤色だったとするものがあり、「丹」=赤色 に由来する説話もあるらしい。
要は「丹波」の由来はよく分からない、というのが実際のところかもしれない。
「丹波」や「桑田」が使われている史料例としては、「日本書紀」垂仁天皇 87年2月条に、
との記載がある。(余談:飼っている犬に名前を付けていたとする初見か?)
また「古事記」垂仁天皇のホムチワケ伝承には次の記載がある。
垂仁天皇の実在性や在位年代はさておき、少なくとも日本書紀や古事記が編纂された 700年代初頭には、「丹波」「桑田」の名称もしくは地名が存在したものと推測される。
更に、継体天皇即位前紀には「足仲彥天皇五世孫倭彥王、在 丹波國桑田郡(仲哀天皇の五世の孫、倭彦王が丹波国桑田郡に在す)」の記述があり、「桑田郡」としての表記が初見できる。
古代(683年以前)の丹波国は、現在の丹後地方や但馬地方を含む広範囲に渡るものであり、下記 A, B, C全ての地域(郡)を含むものであった。
A(丹波国)桑田郡、船井郡、多紀郡、氷上郡、天田郡、何鹿郡
B(丹後国)加佐郡、与謝郡、丹波郡、竹郡郡、熊野郡
C(但馬国)朝来郡、養父郡、出石郡、気多郡、城崎郡、美含郡、二方郡、七美郡
「増訂丹波誌年表」によれば、684年(天武12)に但馬国(C郡)が分離、713年(和銅6)には丹後国(B郡)が分離したとされ、それ以降の丹波国は A郡の地域として近世まで続くことになった。
4. 桑田郡
「和名類聚抄」(931~938年)によれば、「桑田」は「久波多」と訓じ、郡内には 12の郷が存在したとされる。
「日本歴史地名大系」を参考に、表2 に郷名と現在の推定地域を示し、図1 に推定地域をマークした。
図1 を概観すると、桑田郡に該当する地域の南部には比較的小さな郷域が密度高くあり、北部は各郷域が大きく、南北間にはマークがほとんど無いことが見て取れる。
資料によっては、横作郷(よこさく)を、楯作郷(たてぬひ)或は、摸作郷(もさく)とするなど、郷の存在そのものに諸説あり、推定地域については、不詳のもの、諸説あるもの等、特定できないものがほとんどのようである。
そのような背景があるものの「日本歴史地名大系」では、美山地域は大野地区を除き、弓削郷の広い地域を推定している。
川人郷(かわむと)は、「古事記」允恭天皇代に設置された河部(川での漁をつかさどる部民)が由来とされ、表2 記載の 3つの地域が候補にあげられている。
保津町を比定する説が有力なようだが、「京都府北桑田郡誌」では美山地域の大野地区を推定地域としており、美山地域の西側の範囲を示唆しているのかもしれない。允恭天皇の皇太子である木梨軽皇子の伝承(「8. 伝承」参照)が美山地域に残るのは、川人郷の所在地域に関係しているのではないかとさえ思えてくる。
また、「日本書紀」仁徳天皇16年条に、桑田玖賀媛の名前が見え、雄略天皇16年条では、国県に「桑」を植えさせ、秦氏(中世に美山地域を治めた川勝氏の祖とする資料があるらしい)を遷して、「漢部」を集めて云々、の記述がある。桑田郡に関わるものとして、気に留めておきたい文面である。
参考までに、京北地域の山国郷辺りは、平安初期の桓武朝のころから、長岡京や平安京の宮廷建築の木材供給地とされ、後に禁裏御料地となったようである。明治初頭の動乱期には、山国隊が官軍として戊辰戦争に参戦したことからも、同地域は古くから皇室との結びつきのあったことがうかがえる。
5. 北桑田郡と美山町
古代より連綿と引き継がれてきた「桑田郡」は、1879年(明治12)に、現在の亀岡市一帯を南桑田郡、それより北の地域を北桑田郡として分割されたことにより、その名称を終えることになった。
ここでは北桑田郡内で、後に美山町となる地域の沿革を中心に概観する。
別表「美山地域の沿革」に示す村名は、明治初頭の小学校区を示したものと思われる「丹波全図」から、美山地域に該当する村を抜き出したものであり、それに関連資料から読み取った情報を付加した。
以下、別表「美山地域の沿革」の各項目について解説する。適宜別表をダウンロードして参照されたい。
村名:
元禄郷帳(1700年)にも見えることから、各村の発足が中世以前に遡ることが充分に推測される。
明治9年(一部は3年)にはいくつかの村が合併し、それらの村名が現在の美山町内の地名にそのまま続いていることが見て取れる。
戸数:
「丹波全図」記載の戸数を引用した。奇しくも「日本歴史地名体系」に掲載されている「京都府管轄便覧」(1872年)の戸数と一致したため、その年を項目名に記載した。
禁裏御料:
「京都北桑田郡誌」では、平安初期に弓削郷の一部として、平屋、鶴ヶ岡、知井の各地区が禁裏御料地であったとしているが、ここでは「日本歴史地名大系」で 1802年に禁裏御料になったとする村名に〇印を付した。知井地区の各村が該当するようである。
神社・氏子:
宮島・平屋地区は道相神社(宮脇)、鶴ヶ岡地区は諏訪神社(川合)、知井地区は八幡神社(北)のように、各地区の郷神社の氏子が、集落を跨いで多くいることが見て取れる一方で、大野地区については各集落内にある神社の氏子であることが多いように見受けられる。この差異は古代に始まる土地開発について何らかの示唆を与えているのかもしれない。
寺院・檀家:
近隣村にある寺院の檀家になっている様子がうかがえる。特定の宗派に偏らず各宗派の寺院が存在するが、浄土真宗と曹洞宗の寺院が若干多いようである。浄土真宗については、後述する蓮如上人の伝承が要因のひとつであることも考えられる。
※「神社・寺院」「氏子・檀家」については、「日本歴史地名大系」を参考にした。
神社・寺院については、今後順次現地確認を行い、同大系に記載がなかったものについては適宜追記する。
また、現地確認したものについては、神社名・寺院名の先頭に社寺番号を記入し、地形図上の位置を特定できるようにする。(図2~図7の地形図上に表記されている卍⛩マークに対して社寺番号(追番)を付している。)
行事:
地域の風土と風習を表す重要な要素であり、美山各地域には多くの伝統行事が継承されている。別表に引用した各行事の概要については「7. 行事」で紹介する。
遺跡・史蹟等:
「京都府遺跡地図 第3分冊」「京都府北桑田郡誌」「美山町誌」を参考にした。各遺跡・史蹟の背景については「8. 伝承」「9. 遺跡と遺物」に示す。
行政区画の沿革:
古代:
美山地域の大部分が弓削郷に属していたことは「4. 桑田郡」で述べた通りである。大野地区については、弓削郷に属していたか不明であるため「弓削郷?」とした。
中世:
律令体制の終焉とともに土地の荘園化が進み、美山地域には、野々村庄、棚野庄、知井庄が存在したとされる。
野々村庄には、庄内の三十三ヶ村を六番に分け番頭制で自治していたとする 2つの伝承「木梨軽皇子伝説」と「慶能法師伝説」(「8. 伝承」参照)がある。
両者は背景の異なる伝承であるが、六番三十三ヶ村の自治については共通する内容であり、この地域の土地開発についての由来を示すものとされる。
平屋番:大内、上久保、荒谷、安掛、長尾、野添、深見、上平屋、下平屋
丸岡番:原、板橋、宮脇、又林、下吉田、
和泉番:島、棚田、上司、和泉
高野番:市場、中、今宮、栃原、砂木、棚
大野番:萱野、大野、川谷、小笹尾、岩江戸
樫原番:樫原、向山、谷、音海
上記の内、高野番については棚野庄と称したことが、諏訪神社(川合)の棟札に書き残されているとのこと。棚野庄には、野々村庄の伝承が残らず、知井庄と共通する伝承(香賀三郎の大鹿退治)が残ることから、野々村庄とは別の由来に基づく土地開発が行われたことが示唆される。
知井庄は、知井中、下、南、北、河内谷、江和、田歌、知見、中、芦生、佐々里、白石がその庄域とされる。
戦国期になると、土豪の川勝氏が神楽坂以北の野々村地域を所領し、川勝光照の頃に全盛を迎えた。領内に築いた山城、今宮城址(高野 今宮)、乾城址(鶴ヶ岡 棚)が今に伝わる。
川勝氏の系譜については諸説ある。祖は秦氏とされ、足利氏に仕えた後、明智光秀、羽柴秀吉に従属、最終的には徳川家康に従事し、一族は旗本として江戸に移ったとされる。
「信長公記」巻八の天正3年(1575年)9月2日では、細川昭元が丹波国守護となり、桑田郡を治めたとしている。
江戸期:
一部地域は旗本武田兵庫の所管であったが、それ以外は園部藩と篠山藩が所管していた。両藩の所管地域は地理的に必ずしも連続しておらず、どのようにして所管地を決めたのか確認できていない。
区:
明治初頭の一時期に行政区画とされたもので、桑田郡内の村は、第1区から第24区に分けられ、その内、北桑田郡は第15区~第24区、美山地域は第21区~第24区が該当した。
組を行政区画とする時期もあったようだが、ここでは省略した。
明治以降:
この下に掲げる 表3 は、別表から明治期以降の沿革を抜き出し要約したものである。
明治維新直後の一時期、美山地域は久美浜県や豊岡県に属し、周辺地域を含めた行政区割りは短期間に再編されるなど混乱状態であったが、明治4年に京都府に属すことで落ち着いたようである。
「北桑田郡誌 近代編」によれば、昭和30年の町村合併時には、北桑全郡一町説と南北二町説があったが、南北地域別に合併推進委員会を設けて検討することになり、南部については波瀾曲折があって 1つの町にはならず、北部については、知井・平屋と宮島・鶴ヶ岡・大野の二町説や、知井の独立説もあったが、結果的には 1つの町、美山町 にすることで落着したようである。
「知井村史」によれば、この町村合併時に町名の公募が行われ、上由良町、北栄町、桑田町などがある中で、「美山」は下位の方だったとのこと。最終的にどのような手続きで「美山町」に決まったかについては述べられていないが、いずれにしても、一個人の感想としては、美しい地形と風土を表す良い響きの名称になったように思う。
新字名(≒旧小字):
北桑田郡美山町、船井郡園部町、八木町、日吉町が合併し南丹市が発足した際に告示された「京都府公報 号外第一号(平成18年1月1日)」から、美山町の新字名を参照したが、ほぼ旧小字名がそのまま継承されているようである。
小字名は、特定の場所を示す共通の呼称として、その地域に住む人たちが普段の生活の中で使ってきた名称であることが多く、当地の地形や伝承、歴史背景などの特徴を表す名称として興味深く見ることができる。
例えば、「岼」は「ユリ」と読み、山の中腹の平な部分を意味するらしく、いくつかの地域で「岼」もしくは「ユリ」の文字を含む小字が見られる。「遊里」や「百合」の文字を当てる小字も「ユリ」と読むため、同じ意味で使われているのかもしれない。
その他には、「文字畾地」や「カルノ」など、「8. 伝承」に登場する地名が小字としていくつか見え、古くまで遡る地名があることも推測できそうである。
6. 美山町内の行政境界
美山町内の各地域について、その位置と範囲(境界)を把握するため、GeoNLPプロジェクトがインターネット公開している「行政境界データセット ベクトルタイル図」を参考にして、国土地理院 2万5千分1地形図を利用し赤線で行政境界を記入した。(図2~図7参照)
各図と美山町内 5地区(鶴ヶ岡、平屋、知井、宮島、大野)のおおよその関係は次の通りである。
・図2:鶴ヶ岡
・図3:鶴ヶ岡、宮島、平屋
・図4:宮島
・図5:知井
・図6:平屋、知井
・図7:大野、宮島
行政境界を記入した各図から、各地域の成り立ちや地理的特徴、地域間のつながりなどを面として捉えることができそうである。以下に補足を列記する。
行政境界は1920年1月1日当時のものとされ、その状態が現在まで継承されている。
白石と佐々里の間の行政境界については、情報が公開されていないため記入できていない。
鶴ヶ岡地区など一部の地域については、別表の旧村に相当する地域ごとに行政境界が設定され、その地名をカッコ内に示している。
一般的に行政境界は山の稜線や川筋など、地形の特性に沿って設定されることが多く、いびつな形状の境界線になることが多いと思われるが、美山町内にもその特徴を持つ境界線が、鶴ヶ岡地区の北部、知井地区、宮島地区南部など、山間部の地域に多く見られる。その一方で、いびつな形状の境界線の内側に、地形の特性とは無関係に、直線的(或は人工的)に区切られた境界線も多く見られる。これは境界線の成立時期(古い新しい)を含めた成立過程の違いに依るのかもしれない。
美山町内の中心部を横断する由良川、縦断する棚野川と原川など、川とその周辺の平地を軸にした縦横の動線とは別に、鶴ヶ岡地区と知井地区の山間部は稜線による動線でつながっているようにも見て取れる。距離的には離れているように見える両地区に、「8.伝承」で紹介する類似伝承(香賀三郎)が残るのは、このことが要因のひとつになっているのかもしれない。
別表で示した通り、美山町内には多数の神社と寺院が存在し、地形図上にはそれぞれの図記号があちらこちらに配置されている。行政境界が必ずしも各地域の神社や寺院の守備範囲を表すわけではないが、地域内に存在する神社や寺院の配置を面で捉えることができ、逆にその配置が地形の特性に依らない行政境界を引く根拠になった所があるのかもしれないと思わせる。
7. 行事
「美山町誌」から、地域特色のある伝統行事で、実施地域と実施日の記載があるものを以下に抜粋し、別表 美山地域の沿革 の該当地域に行事名と実施日を記載した。
★印は、京都府登録無形民俗文化財に指定されている行事である。
多くの地域で古くからの伝統行事が現在に引き継がれていることが見て取れるが、引用元の「美山町誌」は、平成14年(2000年)に編纂された ものであり、現在の実施状況については再確認が必要と思われる。
正月行事
お狩初め:諏訪神社で行われる狩にまつわる儀礼
経の塔:読経で年頭の祈祷を行い日の出を待つ
狐がえり:稲荷信仰の一つで五穀豊穣を掌る狐に豊作祈願を伝えてもらう
観音講:お堂で西国三十三か所の御詠歌を上げる
厄神祭:一年の厄払い、厄年の人は前後三年続けて厄除け祈願
株講(苗講):同族者が神社参拝、読経をして繁栄を祈願
星祭り:当たり星を祭り、開運厄除、身体健全、家内安全を祈願
鬼子母神祭:赤ちゃんの授かりや健康を祈願
春の行事
薬師祭:春秋彼岸の中日に実施、耳の病気に霊験あらたか
わさび祭り:熊野権現にわさびを供え、熊狩りへの感謝
やなぎたさん:観音詣り、眼の病い封じ
大原神社祭礼:大野地区の氏神、農業神、神殿裏砂場の砂を持ち帰り田に蒔く
愛宕山参りと愛宕講:京都愛宕山に火災除け祈願、原では神楽坂に参拝
囲垣祭:佐々里が弓削と土地境界を争い分村したことに由来、男子15歳の祝い
ようかび:太陽と先祖を祀り、釈迦降誕を祝う花祭り
夏の行事
不動明王祭り:不動明王の命日にお供えを持ってお参りをする
田歌の神楽 ★①参照
明神滝の祭り:明神滝の上に立つ石を御神体としてお参りする
毘沙門天講:門坊寺山の毘沙門天の祠を参拝し、般若心経を唱えて下山
大般若経の虫干:六百巻の大般若経を土用丑の日に虫干し
上げ松 ★②参照
愛宕山献火祭:愛宕神社の境内で火を焚き防火を祈祷、松明を持って下山
行者参り:行者講、川で般若心経を唱え水行、大峰山へ代参する集落もあり
秋の行事
八朔祭り:砂木の子安地蔵で田実の節句として豊作を祝う、町内最後の盆踊り
放生祭り:八幡宮の祭典
諏訪神社祭礼 ★③参照
八幡神社祭礼:北八幡神社の例祭、雅楽演奏奉納、4年毎の神輿巡行
道相神社祭礼 ★④参照
菅原神社祭礼:大祭は25年毎に万灯祭、神楽、幟差を奉納、例祭は神輿巡行
樫原の田楽(からす田楽)★⑤参照
申し上げ:今宮で行われる男だけの念仏会
冬の行事
山の口:山の神様の祭礼日で儀式以外は入山禁止
妙林講:けんか田事件で権太郎等4名を救った妙林院日樹法尼の命日
★京都府登録無形民俗文化財に指定されている行事
① 田歌の神楽(YouTube動画あり)
1991年(平成3)4月19日 指定
八坂神社の祭礼芸能で、祭礼は7月14日。神楽堂を中心にした行列(天狗、般若、奴、ひょっとこ、お多福、樽負い爺)が神楽宿を出て八坂神社に向かい、拝殿で神楽を奉納する。神楽は、ならし、かぐら、さんぎり、にぎまくら、三人舞から成る。
(2024.07.14 に実施された様子が Instagram で投稿されていた。見に行けばよかった..と残念がっているところ)
② 上げ松(YouTube動画あり)
盛郷、殿、川合:1988年(昭和63)4月15日指定
芦生:1989年(平成元)4月14日指定
愛宕神社の地蔵を祀る行事で、五穀豊穣、家内安全、火伏を祈願し、8月24日(地域により異なる)に実施する。芦生では「松上げ」というが形態は同じで、御神木(灯籠木とろぎ)の先端に付けた火受けに杉葉など燃えやすいものを入れ、愛宕神社の御幣を立てる。そこを目掛けて点火した松明を投げ入れる。
③ 諏訪神社祭礼
1992年(平成3)4月19日指定
諏訪神社の祭礼芸能で、30年毎の大祭、15年毎の中祭は「棚野の千両祭」と呼ばれ、高野は太鼓神楽、鶴ヶ岡は俵振り神楽、豊郷は獅子舞と姫踊、盛郷と福居は太刀振を奉納する。年毎の祭礼(10月15日)は、どこかの氏子が特設舞台場で芸を奉納する。
④ 道相神社祭礼
1999年(平成11)3月19日指定
道相神社の祭礼芸能で、10月9日頃に行われる25年毎の大祭では、宮元四集落(原・板橋・宮脇・下吉田)の氏子が神楽を奉納する。神楽行列は、天狗と獅子、おかめ、ひょっとこの道化芸、大太鼓の曳山、恵比寿と大国の幟差と俵振りの構成。
⑤ 樫原の田楽(からす田楽)(YouTube動画あり)
1983年(昭和58)4月15日指定
大原神社の摂社、川上神社の祭礼(10月10日)で、九人衆(ビンザサラ4、太鼓4、笛1)の講により奉納される田楽躍。講は「鯖講」「いに講」とも呼ばれる。新入りの一人が「かぁ、かぁ」とからすの仕草をする。山の神の祭場では供物として新藁で作った「つと」を燃やし、躍の奉納と神主が弓を射る行事を行う。
8. 伝承
南丹市美山町は、大きく分けて、宮島、平屋、知井、鶴ヶ岡、大野 の5つの地区から成るが、複数の地区で類似の伝承が残されているなど、いくつかの特徴が見られる。
地域間で水利を争う伝承には今のところ見当たっておらず、美山地域の地形と風土を特徴付けるひとつなのかもしれない。
「京都府北桑田郡誌」と「美山町誌」に掲載されている伝承から、主なものを以下に紹介する。
表4 には「美山伝承の旅」の伝承を地区ごとに分類して記載し、「京都府北桑田郡誌」と「美山町誌」で紹介されている伝承や行事で、関連すると思われるものを関連事項欄に記載する。
丹波道主命:
崇神天皇が四道将軍の一人として丹波に派遣したのが丹波道主命である。
丹波平定後は野々村に居住し、没後は奈良井山(大野)に宮を建てて祀られ、野々村郷の総氏神にされたとする。
五社明神社(大野 樫原)に丹波道主命が祀られるが起源沿革は不明。道相神社(宮脇)の由緒に結びつける説話も残るが確証はない。
奈良井山については所有主が転々として度々係争し、明治30年、北桑田郡宮島村大字和泉上司小字奈良井山の山林について、大野、和泉、上司で調停したとされる。
「日本書紀」垂仁天皇 5年条によると、丹波道主命は、開化天皇の孫(彦坐王の子?)とされ、同15年条では、道主の娘 5人の内、日葉酢媛命(ひばす)が垂仁天皇の皇后に、渟葉田瓊入媛(ぬはたにいり)、眞砥野媛(まとの)、薊瓊入媛(あざみにいり)が妃になり、竹野媛は本国に帰した(途中自死)とする。更に日葉酢媛命の生んだ 5人の子の長子が次代景行天皇になったとしている。
尚、「古事記」では、丹波比古多多須美知能宇斯王(丹波道主命)の娘は 、比婆須比賣命、弟比賣命、歌凝比賣命(うたごり)、圓野比賣命(まとの)の 4人とし、歌凝比賣命と圓野比賣命(途中自死)は本国に帰したとするなど、記紀で内容が異なっている。
また、「大野区誌」によると、丹波道主命の臣下、文司黒逸(くろはや)一族の居住地とされる地名が大野地区に 文字畾地 として残る。
木梨軽皇子:
允恭天皇の皇太子とされる。允恭天皇は仁徳天皇の子で、倭の五王の済にあたり、没年は 453年とされる。
軽皇子は、「日本書紀」では穴穂皇子(後の安康天皇)に追われ自殺、「古事記」では伊予に流されたとしている。
当地伝承では、都から逃れた軽皇子は、知井の河内谷(御所ヶ谷)で10余年潜居した後、平屋の大内に住み(紫磨城)、土地を開墾(軽野)、野々村郷三十三ヶ村を六番(「5. 北桑田郡と美山町」参照)に分けて治め、軽野神社を創建、その後、板橋に永住し、神楽坂、海老坂を開いたとする。
軽皇子没後、郷民は軽野神社を道相神社(宮脇)として合祀したとされている。
慶能法師:
菅原道真の弟、頼房とされるが、同家系図に頼房と慶能の名はなく実在が疑われる。
慶能は、菅原道真が大宰府に左遷(900年)された翌年、比叡山を追われ大野村に滞在、還俗して野々村頼房と称した。
6人の子を儲け、野々村、公文、下司(げす)、大沢、菅生、武内の姓を与え、三十三ヶ村を六番(「5. 北桑田郡と美山町」参照)に分け治めさせたとする。
また、行福時(川谷)の前身、長福寺には、928年に慶能の法要のために建立されたとする伝承があり、大野には 949年に没したとする 慶能塚 がある。三埜の菅原神社には、慶能が当地小庵に住んだという伝承をもつ。
川谷の菅生家は慶能の子孫と称し、上庵は、大野野々村家の宅内に天満天神を祀り、毎年八朔の日に神事、下庵は、もと尼寺で大野野々村別家に秘伝録を保存したとする。
上記とは別に、木梨軽皇子の五世孫である野々村左近の娘を娶り 6子を得て分領させた伝承や、菅原道真の怨霊を恐れた天皇が慶能に野々村三十三ヶ村を与え、彼の死後、同村を六番に分け 5つを 5子に、残り1つ(丸岡番)を後室に配分したとする伝承もある。
どの伝承も野々村三十三ヶ村を六番に分けたとする内容は共通している。
香賀三郎(甲賀三郎):
「京都府北桑田郡誌」によれば、鶴ヶ岡と知井に類似の伝承が残るとしている。
更に佐々里八幡宮の由緒にも甲賀三郎が八岐角の巨鹿を退治したという類似の伝承が残るとする。各伝承内容には若干の差異が見られるものの、鶴ヶ岡と知井の土地開発が、同背景をもつことを示唆しているのかもしれない。
(鶴ヶ岡)
文武天皇の御代(700年頃)大和国に香野太郎、次郎、三郎の兄弟がいた。鹿を追い丹波の深山に入ったが互いに見失ってしまい、三郎は棚野村(砂木)、太郎は弓削村、次郎は知井村に出て住んだ。
三郎は佐々木高綱の娘を娶り、氏を満野に改め、後裔は8家に分かれ、次郎の子孫と合わせて、満野十八姓となった。
朝廷は萬野三郎に丹波の八岐頭巨鹿を退治するよう命じた。大弓を削り(弓削村)坂道を進むと16本角の大鹿が飛びかかってきた。矢を射て大鎌で斬り殺すと血が流れ溜まった(知井村)。砂木に定住し狩猟を生業として狩具庫を設けた(狩蔵山の地蔵堂)。
(知井)
元明天皇の御代(和銅6年、713年)天皇は香賀三郎兼家に丹波国北部の深山にいる八頭一身の巨鹿を退治するよう命じた。
兼家が矢を作り弓を削り(弓削村矢谷)、山に入り迷っていると二人の童子が現れ八丁山に導いた。狩衣を脱ぎ甲冑を着け(衣懸山)、佐々里川の上流朽柳谷に入ると、八頭の大鹿が岩窟内より躍り出た。矢を射ると流血が岩を染め(赤石ヶ谷)、岩の上で斬り殺した(俎岩)。岩は後に洪水で流され芦生の空戸にある(俎板淵)。甲冑を脱ぎ狩衣に着替え(鎧岩)、佐々里に八幡大明神を祀った(知井八幡神社)。
八頭巨鹿退治のあと、従兵が当地に留まって永住し、知井村十苗となった。
十苗(林、勝山、高野、大牧、中田、東、長野、名古、中野、津本)が、十社(10ヶ所の氏神社)を祀り、知井地域のとりまとめを行ったとする。
蓮如上人:
「瀧見山光瑞寺誌」に、本願寺八世蓮如上人が記した「丹波つたひの御文」(新潟市 真宗寺の宝物とされる)等が紹介されており、上人が 1475年に、越前吉崎御坊より小浜を経て那田之庄小倉畑に逗留後、八ヶ峰知坂を越え知井庄に出て、南村に寄宿した当時の様子をうかがい知ることができる。
下記 4つの寺に、上人に関わる伝承が残るとする。
光瑞寺(内久保):蓮如が前身の草庵に滞在した。庵主の原田重兵衛が帰依し剃髪、了照と名乗り、草庵を光瑞寺と改めた。毎年串柿を本願寺に贈るのが慣例となっていた。
福正寺(南):蓮如が当地を訪れた時、真言宗から真宗に改宗した。境内に蓮如手植えの柿の木があり、毎年吊るし柿 300個を本願寺に贈るのが慣例となっていた。
最勝寺(佐々里):蓮如が当地に来た時、南村の村民が祐善と改名して再興し、真言宗から真宗に改めた。
最尊寺(棚):棚の中江六右衛門が、大内 光瑞寺に寄留中の蓮如に帰依し、法名教順を もらい随行した。1506年に帰村し、相白山に寺を建立したのが始まりで、1642年に現在地に移建、1759年に再建したという。
大久保権太郎:
秀吉の太閤検地のとき、田の地積をめぐって代官市田千十郎と騒動があり、村人四名と共に投獄された。妙林禅尼が石川伊賀守に哀訴し、4人は放免された。その時の田が 喧嘩田 として大野地区に残る。
濱源吾:
天正5(1577)年 2月、村民等が 松山城 を攻め留守居役の濱源吾は鎮定できず幼君と自刃し松平家は離散。源吾等の屍は岩江戸に葬られ、それが 源吾塚 と伝えられる。
岩江戸妙見山の西側、小山元に 経堂 を建て、大般若経600巻(松平家の領地高島郡の領民が米の代わりに納めたもの)を納めた。これが岩江戸の行事「大般若経の虫干し」に通じるものと思われる。
9. 遺跡と遺物
「京都府北桑田郡誌」や「美山町誌」「京都府遺跡地図 第3分冊」などを見ても、美山地域の古墳や古代遺跡の存在について積極的な記事は見当たらない。
あくまで推測だが、美山地域特有の山あいの小さな平野部が点在する地形をうまく利用した小規模な集団が、古代より当地に分散して暮らし続け、それが現在の美山町の原形になっているのかもしれない。つまり他地域の遺跡のように、廃絶した住居跡や水田跡、墳墓が遺跡として発見される必然性がない(遺跡になることなく当地での暮らしが続いている)のかもしれない。
ここでは、美山町出身の畠中徳三氏の著書「伝承野々村誌」から遺跡と遺物に関する記述を要約して紹介する。氏の地元ならではの独自取材と郷土愛に満ちた考察に興味惹かれるものがある。
石器等の遺物②は、「美山町誌」で「京都府史蹟勝地調査報告書 第六冊」(大正14年刊)の「上平屋発見の磨石斧」として紹介されているものと同じものと思われる。
石器等の遺物:
① 石棒・凹み石(縄文期):大正年間、下平屋の大才野で発見。平屋小学校に保存されてい たが、改築・移転の際に散逸した。
② 磨製石斧(弥生期):大正年間、上平屋の教誓寺境内で発見。他の地点で発見されたものを寺に持ち込んだとされる。輝緑粉岩。平屋小学校所蔵。
③ 凹み石(弥生期):昭和42年11月17日、内久保の光瑞寺境内で発見。内久保の他の地点 (狐塚?)で発見されたものらしい。輝緑粉岩。平屋小学校所蔵。
④ 穴明き石(弥生期):昭和56年9月、内久保の狐塚で発見。輝緑粉岩。個人所蔵。
⑤ 石斧(弥生期):昭和59年、内久保の横道で発見。輝緑粉岩。個人所蔵。
⑥ 黒曜石:当地で産せず、長野県和田峠辺りのもの。平屋小学校所蔵。
吹山古墳:
地域に伝わる話として次の 2つが紹介されており、畠中氏は木梨軽皇子の墓と推測している。
荒倉の吹山(ふきざん)に立派な墓らしきものがあり、昭和5年頃、上部から掘り始めたが、巨大な笠石に当たり発掘を断念した。その後、東側から掘削しかけたが中止。西側から掘り進み羨道の口を開いて内部に入り、石槨に手をつけると急に腹が痛みだして中止。それ以来開口したままだった。昭和15~16年頃、ボーイスカウトの野外活動で現地に行くと、口は開いたままで、中央部に石を積んだ四角の台状のものが見え、朱がつまっていて、石槨の上に刀(剣)が置いてあった。昭和45年頃、マンガン鉱の試掘と称して吹山で3ヶ月作業して盗掘した者がいた。
野添と荒倉の吹山の尾根に古墳があり、石の扉に朱の跡があった。昭和39年、京都大学から教育委員会に平屋に古墳らしきものがあると連絡があり、荒倉から上ったが見つからず。昭和48年、野添から上がると古い炭焼窯跡のような状態で盗掘、破壊されていた。南向きの入口には内部の大きな石(川石)が全て運び出されていた。荒倉側にも掘りかけた跡があった。府の関係機関に相談したが、標高5~600mの山の上に古墳はありえない、とされた。
嶋古墳:
土製勾玉、小玉、管玉の出土ありと伝えられるが所在は不明。古墳は町民センター後方の山腹にあったといわれているが消滅して今はない。
神ヶ迫古墳:
別処に直径20m程の植林された土盛がある。近くには狐塚の地名もあり、古墳であることも考えられる。
更に同地にもうひとつ別の古墳があるとしている。
10. 峠と道
「美山町誌」で、美山町周辺の山並みに現存する峠として、表5 に示すものが紹介されており、ほとんどの峠は「国土地理院 2万5千分1地形図」で確認することができる。(但し「峠」と「坂」は同義とみなした)
権蔵坂、熊坂峠、棚野坂、横尾峠については、地形図上に表記されていないが、「峠越え 西の鯖街道」やインターネットを参照し、推測されるおおよその位置を 「6.美山町内の行政境界」の、図2(横尾峠、棚野坂)、図5(権蔵坂)、図7(熊坂峠)に示した。各峠までは登山道が整備されているようだが、それが古道と同じルートかどうかは確認できていない。
尚、横尾峠は、「京都府北桑田郡誌」では、知坂連嶺から頭巾山に至る嶺筋(頭巾山と堀越峠の間)で、中野峠とされているようである。
表5の大正期の府道・郡道には、古道区間から推測して、「京都府北桑田郡誌」で紹介されている大正11年府道と大正8年郡道の該当すると思われるものを示し、現在の国道・府道については、「ツーリングマップル 2021 関西」を参考にした。
現在の美山町は、南北に縦貫する国道162号と深見トンネル・堀越トンネル、南は府道19号と神楽坂トンネル、西は府道12号、東は府道38号を利用し、比較的容易にアクセスできるが、大正当時は、人が歩き牛馬車が通る狭く急峻な峠越えの道や谷筋の道がほとんどで、東西南北どの方向とも通行に苦労のあった様子がうかがえる。
また、洞峠や鏡坂、海老坂など、現在では廃道になったり、生活道として殆ど利用されなくなった道が、大正当時には人の往来は少ないもののまだ利用されていたことも「京都府北桑田郡誌」から読み取ることができる。
本表を作成する過程で、各トンネルの開通が年代をそう遡ることなく比較的近年だったことに気付くことにもなった。
11. あとがき
本考察は、美山地域に古代遺跡が発見されていないのは何故だろう、きっと古代から住んでいた人たちの遺跡が眠っているはず、その痕跡を探ってみよう、ということからスタートしたのだが、古代遺跡について調べていると、それ以外のことであれもこれも気になりだして美山町の地域史そのものに興味が広がった。
ただ、自分で新たな論説を展開する見識はないため、先人たちが残した資料を参考に、興味が惹かれたことを抜粋して本紙にまとめることに留まったが、それでも美山地域史の一端を知ることができたように思う。
本考察を通じて、美山町の各地域には神社や寺院、史蹟など多数の有形文化があり、その数以上の伝統行事や伝承などの無形文化が連綿と引き継がれていることを知った。
美山町の自然と風土は、その両方を守る人たちの手によって保たれているのだということに、改めて気付くことにもなった。
また、都市近郊では外的資本による開発事業の前工程として遺跡の発掘調査がしばしば行われているが、遺跡の発掘と土地の開発は表裏一体であり、そのような理由で遺跡の発見につながることなく、美山町の風土がありのままの姿であり続けて欲しいと願うばかりである。
「美山」という美しい響きを持つ同地域の地名や地形、風土について興味惹かれることがまだまだたくさんある。もうしばらく美山町の地域史について調べ、適宜この記録を更新していこうと思う。
そして、美山町をゆっくり散策してみようとも。
参考資料
以上
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