見出し画像

『資本主義の家の管理人』~市場化した社会を癒す希望のマネジメント 第11回 第八章 マネジメントと正義

第八章  マネジメントと正義 ~市場では買えない人間社会の基礎構造



<本章の内容>
この章では、マネジメントと正義の関係について詳しく解説しています。市場では買えない人間社会の基礎構造を探求し、マネジメントの倫理的側面を強調しています。



「正義とは他者との関係における善である」

アリストテレス

正義と対立するのは悪ではなく「もう一つの正義」である。そんな言葉を聞いたことがあるかもしれません。

本章では、正義とは何か、正義とマネジメントとの関係、そして、マネジメントにおいて正義がなぜ大切であり、どのように適用されるべきかについて考えてみます。

正義にはいくつかの相貌があります。公正さや倫理を象徴する大事ものとして肯定的に捉えられることもあれば、独善や暴力を正当化する危険なものとして否定的に捉えられることもあります。ロシアのウクライナ侵攻は、ロシアにとっては正義かもしれませんが、ウクライナにとっては自国の領土を侵略し人々の生活を破壊する暴挙であり、正義のために断固として戦わなければなりません。

イスラエルのガザへの侵攻も、イスラエルにとってはテロから自国を守る行動かもしれませんが、テロとは無関係のガザの人々にとっては単なる残虐行為です。

銃を保持することは、アメリカでは依然として多くの人が自分や家族の安全を守るための正義と考えていますが、日本人はそれを他者に危害を及ぼす可能性のある不正義の行為と捉えています。

時代や場所、立場や状況、集団の歴史や文化によって正義は変わります。日常至るところで出会う複雑で明確な白黒を付けにくい正義という問題に、私たちはどう向き合えばよいのでしょうか。他者を否定し排除する危険な概念として遠ざけるか、社会の秩序を保つために不可欠なものとして、困難であっても模索し続けなければならないものと考えるか。マネジメントは明らかに後者です。

限りなく濃いグレーから限りなく白に近いグレーまで、正義には広大で多面的な領域が広がっています。その中で、どの正義を選択するかという判断をマネジメントは避けて通ることはできません。なぜなら、誰もが正義を求めており、不正義がはびこる世界には住みたくないと思っているからです。

誹謗中傷や窃盗など第三者が見れば到底容認できない行為も、本人にとってはそれを正当と主張する理由や弁解が存在するものです。無数の正義の間で何らかの調整が行われなければ、人々のつながりは断たれ、社会は成立しなくなります。通常その役割を担うのが、法律であり、ルールや制度ですが、世の中のすべてのことを法律や制度に規定することは不可能です。その隙間にある正義は、人間の考える力によってすくい上げなければなりません。

「暴走するトロッコ」という、イギリスの女性哲学者フィリッパ・フットが1967年に提起した有名な思考実験があります。

坂道を下っていたトロッコのブレーキが故障し、止まることができなくなりました。あなたはそのトロッコの運転士です。線路の先では5人の作業員がそれに気づかず作業をしており、このままでは5人ともトロッコに轢かれて死亡してしまいます。しかし、その線路は二股に分かれていて、もう一方の先では1人の作業員が作業をしています。進路を切り替えれば、1人しかいない方向にトロッコの向きを変えられます。1人を犠牲にして5人を救うべきか、それともそのままにして5人をひき殺すか。

「5人の命を救うために1人を犠牲にすることは正しいか」というこの道徳上のジレンマには、さらに、やむを得ず1人が死ぬ場合と敢えて1人を犠牲にして5人を救う場合の違い、5人が見知らぬ他人で1人が自分の家族だった場合など、さらに複雑なバリエーションがあります。どれも正しい答えを導くのが非常に難しい問題です。

もうひとつ、「パープルハート勲章」を巡る議論も、何が正しいかを考える重要な視点を提起しています。パープルハート勲章は、戦場で負傷した軍人に授与されるアメリカの名誉戦傷章です。イラク戦争の後、帰還兵の多くがPTSD(心的外傷後ストレス障害)を発症するという状況が生じ、「戦場で心に傷を負った軍人はパープルハート勲章に値するのか」という論争が起きました。勲章は勇気や名誉に対して与えられるのか、それとも負傷したことへの補償として与えられるのか。これは勲章の意味についての議論です。

これらは、ハーバード大学のマイケル・サンデル教授の『これからの「正義」の話をしよう』(早川書房、2010年)という本に出てくる話です。サンデルは、数々の身近な例を挙げながら、正義とは何かを問い掛けています。  

マイケル・サンデル(ウィキペディアより)

人間社会の対立や論争は、そのほとんどが正義を巡る論争であると言っても過言ではありません。自分の考える「良いこと」が他者の考える「良いこと」と一致しない時、その違いを看過できなくなると争いが生じます。解決方法は、距離を置いて摩擦を避けるか、または衝突する正義と正義を調整するかのいずれかです。

業績好調で計画した以上の利益が出た時、その利益を株主に還元するか、社員の賞与や昇給に当てるか、責任の大きい幹部により厚く配分するか、給与の低い社員の生活改善に当てるか、内部留保に回して将来のリスクに備えるか、それとも環境保護や福祉に取り組む団体に寄付するか。経営者は自分が正しいと思う方法でその利益を分配します。

今期決算で最高益を達成するか、それとも利益を抑えて投資して5年後のより大きな利益を目指すか。また、現在利益は出ているがある部門を閉鎖すればさらに収益力が高まる時、その部門を閉鎖して人員削減に踏み切るか、それとも今の雇用を維持するか。これらも、何を正しいと考えるかという経営者の判断によって決まります。

介護や育児に多くの時間を割かざるを得ない人とそうでない人、健康な人と健康状態に不安のある人、経験の豊富な人と浅い人。チームのメンバーにそれぞれの状況に応じてどう仕事を割り当てるか、給与にはどのような差を設けるべきか。マネジメントに当たる人はさまざまな要素や事情を考慮して、正しいことを判断し、決定していきます。

マネジメントは、こうした判断の繰り返しです。そして判断には主観が伴うため、正義と正義の対立が生じます。こうした対立は、通常、職場のルールや職務権限に基づいて処理されていきますが、処理しきれない問題が生じた時に、力関係に頼って正義を押し通そうとするとハラスメントが発生します。ハラスメントは多くの場合、正義を巡るコミュニケーションの失敗です。

世の中のこうした面倒な対立を回避したいという気持ちが、人々を市場に向かわせました。

市場は人間の恣意性を排除し、客観中立の立場で答えを出してくれます。売り手と買い手をつなぐのは「得か損か」という基準であり、市場の参加者は得と思えば買い、損と思えば買わないだけです。市場には競争原理が働いており、より多く得をした人が勝者になり、より多く損をした人が敗者になります。わずか1%の富裕層が世界の富の4割を手にしているのも、アメリカのCEOが一般社員の300倍から400倍の報酬を得ているのも、それは市場が決めた結果であって、誰かが意図してそうしたわけではありません。

市場の基準は「損か得か」であり、極めて単純明快です。市場に参加するかしないか、買うか買わないかは個人の自由です。しかし、市場が社会の隅々に広がった現在、人々は否応なくそこに参加せざるを得なくなっています。ただ、そこで市場の決定に従うだけで意思決定を放棄するなら、それは人間が市場の奴隷になったことを意味します。市場で正義を買うことはできないのです。

善に対立するのは悪であり、その違いは明確です。しかし、正義に対立するのは「もう一つの正義」です。どちらが正義かという問いは、答えのない不毛な議論に感じられるかもしれません。結局正義は強者の論理であり、弱者はそれに従うしかないと感じるかもしれません。しかし、そうではありません。自由と同様に、正義も他者の存在によって正義となるのです。このことをアリストテレスは「正義は他者との関係における善である」という言葉で表現しました。

正義は英語で「Justice」です。この言葉は「均衡」を意味する「Just」と同じラテン語の「Ius(法、権利)」を語源としています。「Ius」が「Iustus(正しい、公正な)」となり、JusticeとJustになりました。つまり、正義とはJustであること、他者との関係において均衡がとれていることを意味します。いかに自分が正しいという確信を持っていても、他者との間でちょうどよい均衡点(Just)を見出せなければ、それは正義(Justice)にはなりません。自己の正義をひたすら主張するのは、そもそも正義ではないのです。

しかし、現実の世界は複雑な利害関係が交錯しています。職場や取引先の人々との間で、私たちはどのようにJusticeを見つければよいのでしょうか。

そのための有効なアプローチに、利害が対立する人々の置かれた条件をすべて取り外して考えるという方法があります。この仮説的な思考実験は、アメリカの哲学者ジョン・ロールズが1971年の著作『正義論』の中で「無知のヴェール」と名付けたものです。

ジョン・ロールズ(ウィキペディアより)

「無知のヴェール」とは、人々が自分の社会的立場や個人的特性を知らない仮想の状態を指します。豊かなのか貧しいのか、健康なのか病弱なのか、走るのが速いのか遅いのか。ありとあらゆる前提条件を取り払った時に、人はどのようなルールや制度を選択するだろうか。「無知のヴェール」に包まれた時、人々は個人の利己心や偏見を排除して普遍的な判断を下すだろう。自分が恵まれるのか不幸になるのかが分からない状況では、恵まれず不幸な状態になった場合にも受け入れられるルールを公正なルールとして採用しようとするはずだ。ロールズはそう考えました。

もし自分が家庭に恵まれず、貧しくて大学に通えないとしたら、どのような社会のルールを公正だと考えるでしょうか。一部の学生に便宜を与える奨学金制度は正義にもとる制度であるとはおそらく考えないでしょう。食べ物を分ける時に、病弱で体の小さい人が屈強な体格の人と戦って勝ち取れと言われたら、それを公正な分け方だと思うでしょうか。自分が豊かか貧しいか、病弱か屈強かが分からない「無知のヴェール」に包まれた状態で人々が合意するものが、アリストテレスの言う「他者との関係における善」に当たります。

ロールズは、『正義論』の中で、公正な社会制度や正義の原則を導き出そうとしました。彼が発見した正義の原理は次の2つでした。

第一原理:人々は、基本的諸自由に関して平等で対等な権利を保持すべきこと。基本的諸自由とは、政治的自由、思想・言論の自由、良心の自由、心理的抑圧や身体的拘束を受けない自由、財産の自由、法によって保護される自由などである。

第二原理:その上で、社会的・経済的不平等(地位や職務に付帯する権限や、富や報酬の差異)は、その差異が、(a)恵まれない人々の利益を導くものであり、かつ(b)誰もに開かれた地位や職務に限定された差異であること(世襲的な差異であってはならない)。

一つ目はが言っているのは、人間の自由はすべての人に差異なく保証されなければならないことです。二つ目は、社会的・経済的格差は、その格差が最も恵まれない人々の状況を改善する場合においてのみ公正である、ということです。前者は基本的人権としての自由の保障であり、後者は「ノブレス・オブリージュ」と言われる道徳観であり、高い地位や富を持つ者は、それに応じた社会的責任と義務を果たさなければならないということです。ロールズはこの2つを人間社会における普遍的な正義と考えました。

この2つの原理は、先に基本的自由の保障があり、次にノブレス・オブリージュがあるという順序でなければなりません。つまり、個人の自由の侵害は、それがいかに社会的・経済的利益をもたらすものであっても認められないということです。5人の命を救うために健康な1人の生きる自由を勝手に奪うことは許されない。5人の命は重要だが、「最大多数の最大幸福」は、質的な比較が加えられなければ正義とはならないのです。これが市場の答えを人間の判断が修正するということです。

第二原理は、「全員の便益とならない不平等は不正義である」ということを言っています。もし、1%の富裕者が世界の富の4割を保有していても、それが恵まれない人々の生活の向上に寄与しているのであれば、不正義ではありません。CEOの報酬が一般社員の400倍であっても、それが社員全体の給与の底上げにつながっているのであれば、それも不正義ではありません。しかし、そうでないならその格差は不正義なのです。企業の利益も、それが富める者の富を増やして社会の格差を広げることに使われるなら、その企業の活動は正義に適うものではないということになります。

会社の中ではさまざまな意見の対立が起こります。人材育成のために人事異動をさせたい人事部と、戦力を引き抜かれると売上や利益に影響が出ると考える営業部の対立。抜擢人事を求める若手社員と、年功や経験を重視するベテラン社員の対立。能力や人格に優れるが結果の出ていない社員と、行動に問題があっても結果を出している社員のどちらを高く評価すべきかという評価を巡る意見の対立。

こうした問題も「無知のヴェール」を被せて考えると、何が正しいかが見えてきます。自分が人事部でも営業部でもなく、若手でもベテランでもないとしたらどう考えるか。個人名を外して能力や人格と営業成績のどちらがこの会社にとって大切か。自分を離れて全体の視点で見たらどう見えるか。意見の対立する人たちに前提を外して考えてもらうのです。

もちろんこれは思考実験であり、完璧に「無知のヴェール」を被せることは難しいですが、その試みから合意の糸口が見えてくるはずです。

正義の第一原理を会社に当てはめると、立場や役職に関わりなく、すべての社員が人として対等な自由と人権を有するということです。社長であれ、部長であれ、新入社員であれ、同じ基本的自由が保障された対等な人間であるという前提が、自由な組織風土を形成します。

第二原理は、役職や責任、達成した成果に応じて報酬の差異は当然にあるべきですが、報酬が多く立場が上の人ほど全体の福祉の向上に大きな責任を負っているということです。その逆に、優位な立場の人が自分の利益ばかり考えれば、組織の信頼やつながりは失われます。そして、優位な立場や役職は特権的・排他的なものではなく、その立場に立つ機会は全員に開かれていなければなりません。

こうして正義の実現に取り組むことによって、互いの信頼が生まれ、協力して成果を挙げようとする自由で明るい組織が築かれるのです。

マネジメントの判断には、いくつかの段階があります。

一番目は、ルールに基づく判断。
二番目は、自分の知識や経験に基づく判断。
三番目は、組織の理念や価値観、方針や戦略を踏まえた判断。
四番目は、会社の外の世界の規範や価値観に照らした判断。
そして最後が、「何が公正か」という判断。

正義の判断は、最も抽象的で難易度の高いものですが、最も困難な局面に向き合う時に求められる判断です。

マネジメントの判断基準(筆者作成)

このような話に対して、ビジネスは正義のために存在するのではなく、ビジネスの目的は経済的豊かさの追求であり、利益の公正な使い方を決めるのは政治の仕事である、という反論が聞こえてくるかもしれません。

もちろん、正義の実現は政治の重要な役割です。しかし、それは正義がマネジメントとは無関係であることを意味しません。会社は人の集まりなので、互いの信頼がなければ適切に機能することはできません。信頼の築かれていない組織は強制や命令に頼ることになり、指示や命令がなければ誰も動けなくなり、ますます弱体化していきます。信頼を築くために最も必要なものが公正さなのです。

マネジメントは、常に「何が良いことか」を考え、Justiceの実現に責任を負う役割を担っています。その努力が信頼を育み、人々をつなぎ合わせ、強く美しい会社を作り、持続可能な社会の土台となるのです。

アダム・スミスはこのように言っています。

「正義は壮大な建物全体を支える柱である。それが取り除かれたら、人間社会の基礎構造は瞬時にして砕け散るだろう」

アダム・スミス『道徳感情論』

正義は市場では買うことのできない人間社会を支える基礎構造です。その実現こそが、人々がマネジメントに期待する最も重要な役割なのです。

★ 希望のマネジメント

第9条 「正義で会社を支える」

<本章のまとめ>

  • 正義は人間社会の基礎構造であり、マネジメントはその実現に重要な役割を負っている。

  • 人はそれぞれの正義に従って生きている。マネジメントは多様な正義の調整を図らねばならない。

  • 「Justice(正義)」は「Just(ちょうど良い)」と同じ語源を持ち、他者との関係の中に存在する調和点を意味する。正義は「他者との関係における善」である。

  • 正義には、基本的自由の保障とノブレス・オブリージュという2つの原理がある。

  • 正義は、最も困難な問題を考える時に必要な判断基準である。

  • 正義は市場で買うことはできない。マネジメントが正義を追求することで人々に信頼とつながりが生まれ、強く美しい会社と持続力のある社会が形成される。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?