「不登校児の誕生日」エッセイ

 小学3年の途中から私は不登校になった。私には小学1年生の春から毎朝「いーぶーきーちゃーん」と家に来てくれ、一緒に登校していたトモちゃんという近所の友達がいて、毎日その子と遊んでいた。私が不登校になっても毎朝呼びにきてくれて、4年生にあがるまで、行けたり、行けなかったりを繰り返していた。私が学校に行けないと言っても「また明日向かえにくるから、一緒に学校行こうね!」と言ってくれた。
 ほぼ行けない状態になっていた2月の誕生日当日、その日も「気持ち悪いから今日も行けない」と母に伝え家にいると、放課後にトモちゃんと、他にも元々交流のあった友達数人が「誕生日おめでとう」と来てくれた。可愛いメモ帳や、匂いのするペンや、ぷくぷくしたシールなどの小さな誕生日プレゼントを持って来てくれたのである。
 そんな予想なんてつかなかったので、寝たままの部屋着で出て行ってしまい、恥ずかしいやら嬉しいやら忙しい気分だった。「いぶきちゃん、待っているから学校来てね」と言ってみんなは帰っていった。その夜は家族とケーキなどを食べて過ごした。

 4年生にあがったくらいから私はほぼ家に引きこもり過ごした。
 トモちゃんが毎日来てくれることもなくなった。行けない日がかなり増えていったので母がごめんねと伝えたのだ。
 家の隣は幸か不幸か小さな公園で、近所の子供たちが毎日遊んでいた。友達の声が聞こえると、見つからないようにカーテンからそっとのぞいて見ていた。学校は嫌だけど、遊びたいなぁ。そう思いながら。

 4年生も終わる2月、ほぼ1年間学校へ行っていない。誕生日の日、私はもちろん家で過ごしていたのだが、いつもよりも寝癖に気を使い、服の中でも両親に気づかれない程度のちゃんとしたものを着て「誰かが急に来てもいいように」1日過ごした。
 その「誰か」は夜になっても結局来なかった。ちょっとの期待くらいで、必ず来るとは思っていなかったけれどとても悲しく虚しい気持ちになった。でも、学校を休んでいる私が悪いんだからしょうがないんだよなぁと納得もしていた。気づかれないようにしていたとはいえ、ソワソワしていただろうし身だしなみももいつもと違うので両親は、誕生日の期待にきっと気づいていただろう。そんな私を見ている両親の気持ちを考えると居たたまれない。

 それから家に友達が来ることはなかった。トモちゃんとはその時期以来話もしていない。不登校の友達にばかり構っていたら、友達の輪に入っていけなくなり、居場所もなくなっていく。4年生のときには学級崩壊ぎみになっていたようなクラスだったのでしょうがない。そんな空気だったのだ。そして私もトモちゃんに面倒はかけたくない。呼びにきてくれても、泣いてしまうだけで学校には行けないのだから。

 あれから20年近くが経つが、今年の誕生日も友人や先輩からおめでとうの通知が来る。毎年誕生日になると、小学4年生の誕生日を思い出しては今の幸せをかみしめているのだ。

               ***

2/26は誕生日だったので、誕生日にいつも思い出すことを載せてみました。切ないようなもはや懐かしいような...
今はラインで仲間たちや家族からおめでとう連絡が来ます。フェイスブックとかも。ありがたや。うれしい。

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