「東日本大震災の日のわたし」エッセイ
・11日
高校の卒業式を終えて数日経った昼過ぎ、愛犬と2階の部屋にいると、揺れた。怖がって震える愛犬を抱きしめていると「食器棚の扉押さえて!!」と母が呼んだ。ボロい食器棚は扉がしっかり閉まらないため地震のたび家族総出で扉を押さえる作業をするのだ。揺れは大きく長かったので「これはただことじゃないな」という気持ちでいた。
地震が収まると、停電した。中学2年の弟は生徒会の用事で学校、父は自宅近くの職場にいた。私の携帯電話でテレビが視聴できたので、帰ってきた弟と母と3人でまずはニュースを見た。津波警報や都内の大きな揺れの中継などを見ていたが、10分、20分と経ち30分もする頃には沿岸部でのあの惨状が中継で映し出される。これ映画?と思った。ありえない光景だった。ちょうど1週間前の土日、弟と母はこの中継で映し出されている大船渡へ部活の合宿で泊まっていた。泊まった友人宅も、サッカーグラウンドも、母たちが買い出しへ行ったマイヤという大船渡のスーパーも全て流されている。
16時前後になると福島原発のニュースが流れいよいよ人ごとではない非常事態を感じた。暗くなり始めたので母は近くの祖父の様子を見に行き、私は近くのコンビニへ行った。コンビニは非常用電源で営業を続けていてくれた。ニュースが見られないことや連絡が取れないことを不安に思っていたので、電池式の充電器を探すと最後のひとつを買うことができた。ラジオ用の単一や懐中電灯などに使えそうな単三も買い帰宅した。同じような考えの近所の人たちで数十名の列ができている。その日はガスコンロを使い冷蔵庫の中のもので鍋のようなものを食べた。
当時住んでいた実家は母が小学生の頃から住んでいた家ですきま風だらけだったので新聞紙やガムテープを使い目張りをしてストーブを少しずつ使い同じ部屋で家族4人寝た。
・12日
早く起きニュースを見ているとかなりの状況で、県内の停電も長く続く可能性があると思い、母は電気ストーブしかない祖父の家に電池で動くストーブを運びにいった。私は家の近くの薬王堂というドラッグストアへ行くことにした。
ある程度の行列は覚悟していたが、開店の30分ほど前に行ったがもう数えられないほどの列が続いていた。ドラッグストアの次は隣のスーパーへ行こうかと思っていたがとてもじゃないが無理だ。
私の前は小学校低学年ほどの女の子が並んでいた。15分ほど経ったあたりで、あまりに列が動かないのと女の子の前の人が家族ではないということが分かったのでその子に声をかけた。その子はひとりで並んでおり、お母さんは隣のスーパーに別で並んでいるという。こんなに小さいのに偉い。私がその歳だったときは家の隣の駄菓子屋にギリ行けるくらいであった。
心細いだろうし、私は高校3年生といえどこの子から見たら大人なので最初は少し怖がられてしまったが、話しているうちに心をだんだん開いてくれた。しりとりなどをしてなんとか過ごしているとその子のお母さんが大きな買い物袋を持って来た。その間ですでに2時間ほど。薬王堂の列はまだまだだ。その子のお母さんは一緒に並んでくれていたことへの感謝と「ココだけの話、発電所がヤバいことになっているから停電は数週間、長ければ1ヶ月は続くかもらしいわよ」ということを私に伝えた。
私はとても賢いわけではないが、「そんなことはねえな、さすがに」と思いその母の両手に持つ多すぎる食料品などの買い物を見て「買い占めとはこのような不必要な不安から起こるものなのだな」と思ったが、私が何か言って実際にそのような期間の停電になってしまったら責任を取れないので何も言わないでおいた。福島原発の事故と沿岸の津波の未曾有さと、自分の住んでいる内陸部の状況を一緒くたにしてしまう感覚も分かるといえば分かる。
そんな状況なので母が列の途中に一緒に参加すると周りから文句が出そうと思ったので「車で待っていてくださいね」と伝えさらに1時間ほど並びその子と一緒に買い物を済ませた。私はもう少しの電池と、カップラーメンがいくつかあったほうが安心だと思っていたのでそれらを買ったが、女の子の母の言うことで少し不安が増えてしまい、予定よりも数個多めにカップラーメンを買った。
うちの地区は幸い停電のみだったが、周りはかなり広範囲で断水していた。どの家庭も小学校などの公共施設に並びタンクに水を汲んで使った。トラブルにならない程度の人数の家族それぞれの仲のよい友達にだけ、うちの家先の水道を使うよう、家を訪ねるなどして連絡した。
うちもいつ断水になるか分からないと思ったので風呂に水をためておいた。湯が沸かせないので水で身体を拭いたりした。髪が洗えないのは我慢した。3月の冷水で髪を洗う勇気はない。
2日目あたりからmixiやtwitterで被災時の知識などを得た。メールや電話はほぼ使えなかったが、それらのSNSのメッセージ機能はネットがあれば通じたので当時東京にいた彼にも連絡がついた。家の付近ではネットも不安定だったので、自転車でうろちょろし、電波の拾いやすい場所を探したりなどもした。なぜだか分からないが、家から自転車で10分ほどのとある場所はネットが通じやすかった。
この日はカップラーメンや冷蔵庫にあるものなどをたしか食べた。
・13日
朝から福島原発のニュースが続き、政治に全く関心のなかった私は初めて、「これは人ごとではなくしっかり注意して見聞きしなければならない問題である」と思った。震災を通して一番私が変わった部分である。
そして津波の被害がどんどん明るみになっていく。「未曾有の事態」「壊滅的」ニュースでは聞いたことのない絶望的な言葉たちが並んでいく。福島の避難や関東の計画停電が始まる。
食料や灯油が減って行き多少不安になる。ガソリンスタンドには見たこともない長蛇の列がなされている。この日は数時間断水もした。水が出ないことへの恐怖を初めて知る。
弟が「ねえちゃんはひとりで充電器や電池を買ってきたり、水を風呂に溜めたり自分で考えて早く行動しているのに、俺はなにもできていない」と悔しがり、近くのスーパーへ食料を買いに並びに行くと言うので、お願いねと家族で頼んだ。
しかしtwitterかなにかで、土日ジャンボ市(土日だけ開店する産直や魚市場のようなもの)があるのものだけの出し切り販売で営業してくれるという情報を得たので車で行くことにした。見たところ口コミを知る人がまだあまりおらず空いているということだったので友人たちにも連絡し、急ぐことにした。スーパーに並んでいる弟を拾いにいくと、非常に残念そうな顔をし車内では悔し泣きしそうなほどだった。
土日ジャンボ市では肉魚や野菜などが買えた。その日の食卓は温かく、助かった気分になった。カップラーメンを買い占めれば安心だが、いくら被災しているとはいえカップラーメンだけで生活をするのは心身ともにかなり厳しい。無人島ではあるまいし、人間が普段食べるべきものを食べられるべきだと思った。同時に、津波の被害に遭ってしまった方々には3日目の現在、食料の不安など二の次なのだとも思った。生きているか、そうでないかの問題だった。
14日
この日あたりに電気が復旧した。この嬉しさは相当なものだった。しかし、沿岸や福島はこんなに大変なのに、私たちはもう日常へ戻る準備をしなければならないのだな。とも思ってしまった。
まずは風呂に入った。弟や父は水で洗っていたが、私と母は髪がベトベトだった。
ひたすら部屋で家族がかたまりテレビニュースを見る。時間が経てば経つほどに増えて行く、報道される津波による行方不明者数、福島の避難の非現実感、避けるに避けられないニュースにただ落ち込むばかりだった。
父は職場で連絡業務や落ちてきたものの掃除などに追われていた。その他の家族もようやく家の掃除などをした。祖父の家に行きご飯を届けたりなどし、その他はただただテレビでニュースとACの繰り返しである。
・それから
次の日あたりには父以外でVHSのドラえもんの映画を見た。ショッキングな映像ばかり見続けて疲れたのだ。見慣れたそれぞれの一番好きなものを選んで見た。だんだんと弟は近所の子と遊ぶなりし始めた。
私はSNSで救援物資を届ける人の情報を得て手伝いに行った。阪神淡路の際の教訓で個人での被災地への移動は控えた方がよいという情報があったが、私が物資を持っていったのはあくまで個人で沿岸部の友人宅やその周辺へ物資を持っていくという人で、警察からの道路の許可を取り、いざ行ってみると道路は全く混んでおらず、届けてすぐ帰ることができたようだった。
しかし市の避難所のような場所などにいきなり、仕分けのしていない大量の半端なものや、着れるかも分からない古着などを持っていくのは言語道断である。欲しいものだとしてもトラブルの元になるので配ることができないし、汚い古着などゴミになる。そのゴミを分別するのも現地の被災者の仕事になる。責任を持てないことはするべきではない。
そして数日が過ぎ友達と連絡を取り会ったりできるようになった。高校が終わり最後に同級生や先輩、音楽仲間などと遊ぶ約束がたくさんあったのだが、そんな場合ではなかったしそんな気分でもなかった。そもそも店もやっていなかった。ほとんどの約束はなくなった。ようやくランチをしたりしてお互いの数日前の状況を報告などした。
月末には盛岡のライブハウスで高校生バンドマンの大きなイベントである「卒業ライブ」があった。出演予定のバンドマンの親や、その他の大人からの批判や問題視などがされたが決行することとなり、私たちは無事卒業ライブをさせてもらった。都内でさえも自粛自粛だったのに、岩手県内の高校生がライブをするというのはかなり賛否分かれることだった。しかし今でもあの日を無いものにしなかったライブハウスのオーナーやスタッフさんたちには未だに感謝している。高校生活の中でも記憶に残るとても良い思い出だ。
打ち上げなどもしにくかったが、自主的に友人とご飯に行く、というていで出演者たちは最後の高校生バンドマンとしての夜を終えた。
そうして自分の生活がなんとなく戻ってきて、私は4月の頭に上京した。新幹線はまだ壊滅状態で、夜行バスで母と向かった。東京はまだ自粛のムードが残っていて、スーパーでは乳製品などが不足していたりなどしていた。
ライブハウスでは救援物資を募集するイベントをしていたり、義援金にするため自分の物販を売るバンドなどもいた。地元を離れたばかりの私が地元にボランティアに行く訳にもいかない。ありがたいなと思うしかできない。あんなことがあって今も大変なのに、夢や希望に満ちた私の新生活の幕は切って落とされたのだ。
中学生頃からずっと東京で暮らすと決めていた。地元になんの未練もなく、愛犬と離れることだけが寂しいと思っていた。しかし最後の最後で、こんな状況なのに地元を離れるなんて。と少し思った。
それから東京生活が落ち着いて数回、少し謝りたいような気持ちで岩手の沿岸へボランティアへ行った。その体験話はまた今度にしたいと思っている。
以上が私の3.11前後の動きの記録である。