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エッセイ(6)【左手は添えるだけ】
こんばんは、お久しぶりです。湊です。
本年もよろしくお願いします。
気ままにnoteを開きました。気分は天気のようだと思っています。つまり通常運転です。
さて、言葉を綴らない間にいろいろありました。以前付き合っていた彼氏と別れ、帰り道に偶然会った旧友となんやかんやあって現在恋愛交際中です。
さらに仕事面でも環境の変化が近く、自分の現状が変わることに、新芽のように青く若い希望を感じています。しかしそれとは裏腹に、闇のように暗く、どこまでも続く不安をも感じる日々を過ごしております。
何があるか、どのタイミングでそれが起こるかはやはり分からないものですね。良いものも悪いものも、それは時に厄介だったりすることもあります。
以前友人に、あなたの恋愛は重いと言われたことがありまして……なんか話題で舵を切るのが雑になってしまった。エッセイ、ということで許してください(?)
最近はその自覚していなかった「重さ」を痛感しています。
重さの原因はわかっています。
私は「愛情」を、お金でもプレゼントでも何でもなく、替えることのできない「時間」で量ってしまう癖があるということです。
身勝手な話、お金も物も、好意の証拠品や交際のための必需品みたいに扱いたくなくて…。
なので私は愛情表現に時間を使うようにしているのですが、これには欠点があります。相手を考える分、無駄に悩む時間が増えるということです。
苦しい、しんどい。だけどやっぱり私なりの愛情表現には…!なんてことを考えていたら、超絶シングルタスク型すぎてうわの空〜な日常になってしまうこともしばしば。
考えた末にピンときたのが、題名の【左手は添えるだけ】というスラムダンクでの名言。実際はこの文登場してないようですがそれは一度置いておきましょう。←確認してまいりました。登場するようです…。ネットサーフィンって難しいですよね…。
左手は添えるだけ。
添えるだけ、でもないと困る。力を抜いて、自然にそこにあるように、添えるだけ。
居ることが自然で、でも居ないと寂しくて。
力を入れたり集中したりする右手を考えるとしたら、それはきっと「自分」なのでしょう。
お互いが寄り添い支え合う関係。
君の膵臓をたべたいよろしく、彼の左手(みたいな存在)になりたいというお話でした。