「愛する」ということ。
私はクリスチャンではないけれど、教会で結婚式を挙げた。
毎週本当に礼拝の行われている教会だったため、今の主人と婚前に牧師さまからのお話を何度か聞きに足を運んだりもした。
「健やかなる時も 病める時も、愛することを誓う」
キリスト教の考えには、頻繁に「契約」という言葉が登場する。
それは、横のつながりだけで約束を交わすのではなく、
神さまという「縦のつながり」においても約束を交わすということ。
私は目の前の神さまに誓ったこの約束の意味を妻になり母になり、
年月を重ねるほどに噛み締める。
好きだから一緒になる、というのが昔の自分にとっての結婚だった。
でも、本当に結婚を決めたのは、ただ相手が好きだったからではない。
相手が落ち込んだ時も、嬉しい時も
自分が落ち込んだ時も、嬉しい時も
「悲しいんだね」「嬉しいんだね」と他人事として感じるのではなく、
「悲しいね」「嬉しいね」と自分ごととして隣にいて一緒にその悲しみを見つめていられたからだ。
それまでの私は、相手の隣に並ぶことができなかった。
そして相手もまた、私の隣には並んでくれなかった。
それは悪いことではなく、ただそうだった。
相手にいいことがあると、なんとなく負けてしまったような、
先を越されてしまったような、遠くへ行ってしまうような気持ちがあって
相手もまた、同じような気持ちでいた。
お互いが幼すぎて変わっていくことを受け入れられなかったのだ。
けれど、今の主人とは初めて隣に並べた。
相手の嬉しいことを、素直に一緒に心から喜べた。
相手の悲しい時に、心から一緒に悲しめた。
でも、初めからそうだったわけではない。
たくさんぶつかって、たくさん話し合って。
たくさん拗ねて、怒って涙も流した。
それでも、やっぱりわかり合いたい。
その思いが最終的に分かり合えない時にも勝ったのだと思う。
お互いが諦めなかった。
隣に並んで同じ方向から見つめられるようになるまで。
「これが恋じゃなく愛なのか」とベタな感想だけど本当にそう思う瞬間があった。
「健やかなる時も、病める時も、愛する」
私はあの契約の言葉を、涙で詰まってしまったことをふと思い出した。
隣にようやく並べた日のことが頭によぎってしまったからだ。
あの日から11年。
私は、愛することを知って結婚したと思っていたのだけれど、
「愛する」ということの奥深さ、難しさを最近また改めて感じている。
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