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二つの小槍に橋を架ける

 私の中には二つの小槍があります。突き出した岩場、尖った岩の塔です。
 小槍はどんどん高くなり、針のような先端に乗り続けることが苦しくなってゆきました。足を滑らせたら真っ逆さまに落ち、体を刺し貫かれるほかありません。どうやったらここから脱することができるのか、考えて考えて、考え続けて辿り着いた今感じていることを書いておこうと思います。

自己開示せずに済む方法

 私は無意識のうちに、嫌いなものに対して「間違っている」という表現をよく用いていました。(希望を込めて過去形で書きましたが、まだまだ現在進行形のほうがふさわしいのかもしれません)

 大雑把な例えですが、誰かに傷つけられたとき、相手に対して「人を傷つけることは間違っている」と言いたくなるのです。でも本当は、「私を傷つけてくる人は嫌いだ」なのです。
(人を傷つけることの是非について言及するものではありません)

 何かを好きだとか嫌いだとか言った時に、周囲の人から批判を浴びることが恐いという思いが根底にありました。
 好き嫌いは完全に私の主観であり、私の感覚です。それを「そんなのは変だ」とか「そんなふうに考えるのはどうかと思う」とか言われると、まるでそこに居場所がなくなってしまうような、自分の存在そのものが許されなくなるような気がしてしまうのです。

 恐怖から逃げるために、私は無意識に主観を隠すようになりました。そして代わりに引っ張ってきたのは、世間一般の倫理観や道徳、客観という外側にある物差しです。元々大嫌いだった「普通は」という巨大な物差しを、自分の心を守る盾として無意識に愛用していたのです。私だけが感じていることを、あたかも、周囲の人々が判断しているかのように表現していたのです。たった一人、頭の中で考えるときでさえも。
 そうして「私は○○は嫌いだ」が「○○は社会において許されない」と混ざってしまったのです。主観と客観がはっきりしない、非常に危うい感覚を持っていたのです。

言葉と自分が一致しないことで生まれた「裁き癖」

 本来、好きか嫌いかのどちらかでいいところを、「正しい・正しくない」にすり替えたことで私の中に生まれたのは「裁き癖」です。(ジャッジ癖という言葉がありますが、響きの重さを重視して、あえてこちらの言葉を使います。)
 これは恐ろしいことでした。無意識に、主観を客観にすり替えて自分や人を裁くというのは、本当に恐ろしく傲慢なことです。裁けば、正しくない人間は罰せられて当然だという考えを生みます。己の暴力性・加害性を正当化する理由を自分自身に与えてしまうのです。理性で押さえているものを開放するのは気分が良いものだからこそ歯止めがかからず、恐ろしいのです。

 それに、未熟な私に一体何が裁けるというのでしょうか。好き嫌いと正誤を混同した私には、裁きなど到底できるものではありません。それすらも私はわかっていませんでした。

神さまでさえ、人を裁くには、その人の死後までお待ちになる。

サミュエル・ジョンソン/D.カーネギー「人を動かす」より

裁き癖が生んだもの

 私の裁き癖は、もちろん自分自身へも向けられました。その結果、「すべき」「こうあるべき」が生まれました。
 「人を傷つけることは間違っている、みんなが許さない」という裁きは、「みんなに許される自分でなければならない、でなければ居場所がなくなる」という考え方に繋がりました。これでは間違うことが恐怖と直結するために、失敗を極端に恐れる、ひどく神経質でゆとりのない状態に陥ってしまうのです。

 人を傷つけてはいけない・親切でなければいけない・勤勉でなければいけない・礼儀正しくあるべき・謙虚であるべき…

 これはすべて大切にしたい考えでもありますが、その理由に「そうでなければみんなが許さないから」を持ってくることは、ちょっと不健康だと思うのです。「裁かれるから」という切迫感を何かの理由にすることは、いつも自分に刃物を向け、追い詰めることと同じなのです。そんな状態ではなかなか良い判断はできません。自分が何かしようにも、間違うことが恐くてはじめの一歩を踏み出すことすらできなくなってしまうのです。自分の本心を覆い隠す膜はどんどん厚くなるばかりで、苦しみも増す一方なのです。

二極化思考

 裁き癖は、私の二極化思考を加速させました。裁き癖そのものが二極化思考であるともいえます。二極化思考とは「正しい・正しくない」、「好き嫌い」、「善悪」、「イチかゼロか」など選択肢が二つのうちどちらかしかないという状態のことです。この思考の持ち主は、自分と相手との意見が異なると、自身が否定されたような気がしてしまうのです。

 私には「同じ・違う」しか判断基準がなく、人と違うことは裁きの対象で、「違うことは許されないこと」でした。「みんなと同じでなければ許されない」から、「みんな」の側である相手から自分と違う意見を向けられると、自分の存在がその場から否定され、排除されるような恐怖を感じていたのです。なんと独りよがりで、不自由なことでしょうか。

 私の持つ二極化思考の原因は、恐怖から自身の本心を隠しておきたかったことと、知識と経験の不足であると考えています。抜け出すためには、主観と客観を分けて考えること、白黒きっぱりとした「二つしかない」状態から、白・グレー・黒と、グラデーションを豊かにしていくことが必要なのです。

 そのためには「どちらでもない」を受け入れること、失敗を裁かないこと、過ちを許すこと、自分の判断基準を疑い続けること。まだまだ途上ではあるのですが、いまの所これらが効果的です。そして言うまでもなく、私の代わりにすべてを受け入れてくれた周りの友人たちの存在はなによりの薬でした。

 そしてこれらがもたらしたのは二極化思考の緩解だけではなく、小さな無知の知、寛容さ、怒りからの解放、ひいては身軽さなどです。自分の世界のグラデーションを広げてゆくことは、のびやかに、さらなる自由に向かって手を伸ばすことだと感じています。

橋を架ける

 かつて行き来することのできなかった小槍の間には、今はか細い橋が架かっています。小槍があることは自然なことであるものの、行き来できないことが問題なのです。二つの間を自由に行き来する自由が欲しかった。欲しいと思っている事にも気が付かなかったけれど。

 小槍は私の中の両極の象徴であり、過去と未来の自分でもあります。
恐怖と防御の輪廻を繰り返してあまりにも高く大きくなったけれど、行き来できれば何も恐い場所ではないということもわかりました。これからは橋を強固にし、美しい岩や砂で小槍の間を埋める楽しみができました。私自身が飛べるようになるのもいいかもしれません。時々、遠くからその発展の様子を眺めることができたらいいなと思います。

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