理想や義務感を捨てた話。
「あの友達のように、いつも周りの人を気遣って声をかけられる人になりたい。」
「『あなたの笑顔を見ると元気になるわ』と言ってくれた人がいる。だからいつも笑顔でいたい。」
「あの夫婦のようになりたい。そのためには、彼らがわたしと恋人のためにしてくれたアドバイスを徹底して守らなくては。」
昔から自分の中に、「こんな人になりたい」「こうするべき」といった基準があった。
理想や義務感というのだろうか。
自分で言うのもなんだが、根が真面目な人間なため
日々の生活や人生の大きな選択においても、その基準に従って歩んできたと思う。
でもその基準は、わたしの中であまりにも大きくなりすぎて、
自分でも気づかないうちに、感情を覆い隠し、すり替えてしまっていたようだ。
本当は嫌いなのに、「◯◯のようになりたい」という理想が、「わたしは◯◯が好きなんだ」と
本当はしたくないのに、「◯◯しなくてはならない」という義務感が、「わたしは◯◯をしたいんだ」
と言ったように。
このことに気づいたのは、「死にたいけどトッポッキは食べたい」という、
気分障害と不安障害を抱える著者が、精神科医とのカウンセリングの様子が描いた本を読んでからだ。
あなたはどうも、これまで経験したことと考えたことの中で、いちばん理想的な部分だけを追い求めているようにみえます。「私はこんなふうになるべきだ!」みたいに。しかも他人の考えや経験を拝借して。
ご自分がしてきたことの多くは、あなたが実際に望んだというより、あなた自身が決めた基準や義務感でしてきたことかもしれませんね。
他人がどうこう言うことよりも、自分がよかったとか、嬉しいことの方が大切なんです。人にどう見られているかより、まずは自分自身の要求に応えてあげないと。
まるで自分のことが書かれているようで衝撃を受けた。
そうだ。
確かに思い返すと、わたしの内にある理想像や義務感は、他人の経験や意見によって構成されたものだ。
なぜそうなってしまったのか。
人に認めれたい。褒められたい。
わたしも人から「素敵だね」と思われたい。
そうすれば、それがわたしの存在価値になるような気がしていた。
逆に言えば、そうしないとわたしには存在価値がないように思われて、怖かったのだ。
でもそんなことをしても虚しいだけで、むしろ心が疲弊していくだけということにも、薄々気づいてはいた。
今のわたしは、隠されていた本当の気持ちを少しずつ見つけ出しては、自分にごめんねと言う日々だ。
好き。嫌い。したい。したくない。
自分の気持ちを大切にして、まず自分自身がわたしを認めてあげられるようになりたいと思っている。