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私の推し画家Vol.5(エドアール・マネ)

何を今さらマネと思われるかもしれませんが、何を隠そう大学では西洋美術史を専攻して卒業論文が「マネとモネにおけるリアリズム」だったので外すわけにはまいりません。ここで一言「マネとモネの区別が付かない方」はこれから先はハードルが高いと思われますので読まないでください。
言っておきますがモネは印象派の創始者ですが、マネは印象派ではありませんよ!印象派の敵対勢力であったサロンにこだわって出品し続けた人です。
印象派の理解者であり、影響を与えた人ではありますが・・・

私が卒論でマネをやりたいと言ったら指導教授が、その頃出版されたばかりの本を紹介してくれました。

群衆の中の芸術家―ボードレールと十九世紀フランス絵画(1975年)
               阿部良雄著  中央公論社

この本も今では古本屋か図書館でしか手に入りません。
かって「印象派の絵は手抜きだ!」という持論を振りかざしていた方にこの本を薦めたのですが、果たして読んでくれたでしょうか?
確かにサロンの古典主義絵画は描きこまれていて、それに比べるとマネや印象派の絵画は簡単にスピーディーに描かれていますよね。でもそこがカギなんです。阿部先生はマネと親交のあった当時の詩人兼美術批評家ボードレールの言葉を引き合いに出して次のように言っています。

過去と未来を切り捨てたマネや印象派の時間構造は「没道徳的」と定義したくなるていのものであって、同時代人の非難もしばしばその点を指向していた。技術の完璧さを犠牲にしてでも表出の迅速さをむねとすべきであると説き、<同時代性>の最も尖鋭なかたちとしての<瞬時性>を積極的な価値として定立したボードレール「現代生活の画家」の主張もまた、道徳的な意味で何者かを切り捨てた選択ではなかっただろうか。

要するに現代(19世紀)に生きる画家は、<瞬時性>が大切だという事ですね。夫は「マネの絵は下手くそだ!」とのたまいますが、分かっててやっていたことなんですよ。それに更にボードレールの言う<無名性>の英雄性が加わると、シルクハットを被った名前を特定できない黒いスーツ姿の紳士の群れや通りすがりの美女が描かれるわけです。
まさに「現代生活を描く画家」が誕生したのです。
黒の紳士達はタイトル画↑「チュイルリー公園の音楽会」1862年76.2x118.1cm(ロンドン、ナショナルギャラリー所蔵)を参照してください。
通りすがりの美女ではないけれど、私の押し絵はこれ↓

「すみれの花束を付けたベルト・モリゾ」1872年

「ベルト・モリゾ」55.5x40.5cm 1872年、まさに19世紀の女神です。
この絵を1978年に出光美術館の「アンドレ・マルローと永遠の日本」展で観た時の感動は忘れられません。オルセー美術館の所蔵品なので、その後も何度か日本にお出ましになっている筈です。

マネとモネの区別がつかない「オーシャンズ11」の ダニー・オーシャンのようなあなた、ちょっとは区別がつくようになりましたでしょうか?