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ADHDの脳内は弾け飛ぶポップコーンと同じ


ポンポンポーンと飛び跳ねるポップコーン。とても軽いが故に、どこに飛んでいくか分からないポップコーン。

ADHDの世界を表現するには、どうしたら分かりやすいだろうかと日々悩んでいました。

ある日映画を見に行った所、閃いてしまいました。

「ポップコーンだ!!!!!!!!!」


今回はADHDの世界をポップコーンで表現してみましょう。


皆さんは、「絶対にこの箱を開けないで」と言われたら、中身が気になって仕方なくなる現象はありませんか?無かったとしても理解は出来るのではないでしょうか?

ADHDの人の日常は、これが毎日続いている。

常に脳と体がムズムズソワソワ感と戦っているのです。頭の中の考えが、ポップコーンのように次々と浮かび、様々な言動を自分の意思とは関係無いところで誘発してしまう。


一つの例え

あなたは、おうち映画をしようと鍋でポップコーンを作っています。それも蓋を閉めないで作ろうとしています。そろそろ弾け飛ぶ頃合い。すると、

ポンって最初のポップコーンが弾け飛んだ。

貴方は次々と出来上がり宙に舞うポップコーンを手で掴む事が出来るでしょうか?

弾け飛ぶポップコーンを掴み取るのは、普通の人にとっても難しいことです。でも、ADHDの人たちはこれを毎日、頭の中で経験しています。次々に飛び交うアイデアや衝動、思考の嵐。その中で「今やるべきこと」に集中するのは至難の業です。

ADHDは弾け飛ぶポップコーンを必死に鍋に戻そうと視線を奪われてしまい、立ち上がったり、教室から出歩いてしまう。子どもも脳内で戦っているんです。わんぱくな子どもの行動とは決めつけないこと。

蓋を閉めずにポップコーンを作るのは非効率だと分かっていても、自分でその蓋を閉める方法を見つけられないことも多いのです。これは意志が弱いからではなく、脳の働き方が違うから。その違いを無視して、「普通のやり方でやれ」と言うのは、蓋を閉めずにポップコーンを作り続けろと言うのと同じくらい理不尽です。


それは才能や個性であって、障害ではないと言うけれど、それは外野が決めて良いことではありません。


そのポップコーン(思考)を爆散させない為に

その飛び散るポップコーンを教員側が掌握しようとしても無理な話です。すでに飛び跳ねたポップコーンをなんとかするよりも、飛び跳ねる前のポップコーンを一定の場所に誘導することの方が遥かに大切です。

当事者の子供が蓋を閉めるのは良いですが、教員や支援者側が蓋を閉めてしまうのは個性の否定になる。

だから、視覚情報を極力削減したりする。

他には、一つ一つのタスクを分割するとか。
この問題ができたら教室で屈伸していいよ。とかね。

ポップコーンの思考をいかに否定せず、伸ばしていくかが鍵になります。

薬について

一つ、覚えてほしい事があります。

ADHDの子、例えば多動症の子は、楽しくて動き回っているのだと思いますか?正確に言うと、動き回っているすべての瞬間を楽しいと感じていると思いますか?

答えはノーです。

これはぼくの例ですが、ぼくは電車を待つのが少し苦手です。身体中がソワソワしてしまい、駅のホーム内を歩き回ってしまいます。心が不安定になるのです。

これが個性であるならば、心が不安定にはなりません。ただ体を動かすのが好きな子として片付けられる。でも多動症の子は感情の揺らぎが生じます。これが毎日続けば、精神疾患を誘発するのは無理もない話なんですよ。

ぼくは薬は大切だと思う。

薬は個性の否定ではなく、これからをどう生きるかを教えてくれる大切な道具だから。


教員は「そんなの誰にでもある」と言い放って支援をしないと決めつけてはなりません。それはあなたが学習機会を奪っているのと同義です。

彼らの学習機会をうばわないでください。


近年、脳科学は急速に進んでいます。皆さんが当たり前に行っている行動は、ある人にとってはとても大変な苦労の一部であると言う事が明確になってきています。それは急速に社会が進み、社会の効率スピードがますます上がっているからという論調もあるかもしれません。そのスピードに振り落とされないように、誰しも生活を人質に取られて、誰も理解するキャパシティを失っています。

もしかしたら、その理解しようとする許容量を失っている社会こそが、「障害」と呼べるのかもしれません。


参考になれば嬉しいです!


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ASDの大学生 春野モカ 
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