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「ADHDは誰にでもある」と言う認識の過ち


ADHDは環境が生む障害とも呼ばれています。

忘れ物をする。
遅刻をする。
話を聞いていない様に見える
おちつきがない

不幸にもADHDの症状は、人と人の間にある信頼に影響を及ぼしてくる。ノーマルの人達はそのせいで予定を崩されていく訳ですから、反感を買うのは無理もない話です。

ADHDの症状は、大人として出来て当然の行動として社会に定着している。出来ないと他人から責められ、自分自身も責めてしまい、自己肯定感を下げていきます。

僕は、この大人として出来て当然であるという期待を作ってしまった学校教育に原因があると思っています。

学校で忘れ物をすると、減点されてしまいますよね。良い所を一つも見ようとせず、子ども達の行動に大人気ないほど減点していく。

これが教育と呼ぶなんて、僕はなんて学校は醜い場所なんだろう?と感じていました。

教育が教え、創るべきなのは、完璧な大人、社会が期待する大人の姿ではなく、計画や予定が変更された時、臨機応変に対応できる柔軟人間であるべきです。出来ないものは周りでカバー

マイナスを容赦なくつけていく学校教育が、息苦しい大人の社会を産んでいる。

教育の理想が、一定のマイノリティに指を刺し排除するシステムを生み出している。

ADHD者は、まさにその理想の犠牲者とも呼べます。

ADHDはよく、「これのどこか障害なのか?」と言われますね。「自己管理不足であると」

それに対して当事者の方は、よく仰る言葉があります。

ADHDの障害たらしめる所以は、頻度であると。

ノーマルの人とADHDの人の忘れ物の頻度は全くレベルが違うと。

確かにそれもあります。でもそれだと反論の余白を生んでしまい、ますます反感を買ってしまう可能性があります。

ADHDの困難の本質は「忘れ物をする」ことではありません。もっとその先。

「忘れ物をする事によって、目の前の目標や目的の達成が不可能になること」

ここに障害が存在しています。

例えば子どもだったら、多動によって本来享受するべき教育が満足に受けられないという事が発生します。

多動が障害なのではありません。多動によって本来成長の為に必要な教育が受けられなくなってしまう事が障害なんです。

一応補足しておきますが、これは教員や子ども、どちらのせいでもありません。多動の子どもは動きたくて動いている訳ではなく、脳内をスッキリさせる為に動かざるを得ないのです。脳の物質が枯渇しているのが理由でね。多動は、脳をスッキリさせ、集中力を一時的に高めようとする無意識の自己調整行動なんです。

大人の場合だと?

書類を無くすという行動そのものが障害ではありません。(勿論社内の情報漏洩になるので、大人の場合は、何度も続けばこれでも障害に匹敵するが)本質的な困難は、その結果として重要な仕事や手続きが連鎖的に進められなくなることや、周囲の信頼を失うことにあります。

チェックリストに当てはまっているから、障害なのではありません。そのチェックリストの症状によってどう社会生活に支障をきたしているのか?

目に見える行動ではなく、その先の結果に目を向けないといけません。


故に、ADHDは誰でもあると言うのは、ちょっと違うのかなと思います。


どうしたら、忘れ物を未然に防ぐ事ができるんだろう? 忘れ物にプレッシャーをかけない社会の創造が必要なのかもしれません。

発達障害の中でも、ADHDの脳についてはかなり解明が進められており、着々と科学的に証明出来るようになってくるはずです。なので乗り遅れないでください!

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ASDの大学生 春野モカ 
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