【さがたび DAY4】小さな有田の壮大なはなし
もしも有田の印象を聞かれたら、「圧倒的な量と大きさ」と答えると思う。
少ないのは、街中の宿泊施設と飲食店くらいなものだろう。(本当に調べて行かないと途方に暮れる)
特に上有田は景観保護の地域だから、コンビニもつくれないそうだ。
そのネームバリューからはまったく想像できない、観光地ではなく職人の住まう街。
有田は「多い」!
源右衛門窯に工房見学に行ったら、まず職人さんの人数に驚いた。
分業制のため各々の持ち場が決まっていて、大きく分けると器の整形に5人、絵付けに8人。休憩したり別の作業をしている人もいたから、もっとここで働く人は多いはず。
そば猪口で有名な渓山窯も、広い工房に職人さんたちがずらり。
伊万里の大川内山とは全然違う。
出来上がった器の量もハンパじゃない。
少し背伸びをしたら届いてしまいそうな低い位置で、板に乗せて乾かされている器たち。
形は同じ物を大量生産というよりは様々な形のものを少しずつといった印象で、板の端に用途のメモが下がっていた。
器作りの工房の隣にあった大きな窯。
使うのは一年に一度、行事のときと教えてもらった。
職人さんの様子も後ろから撮らせてもらったので、見たい方はお声がけください!
有田は「ひろい」!
現場を見ていると、疑問もたくさん出てきた。
そこで解決しに向かったのが、佐賀県立九州陶磁文化館。
地元の人も「あそこは行っておいたほうがいいね」という、しっかり学べるスポット。
陶器でできた大きなからくり時計もある。
40分〜1時間で回れると言われたけど、歴史がわかる常設展だけでそれ以上の時間を使い、コレクションはさらっと・企画展は完全スルー。
でも疑問はすべて解決できました。
Qなぜ有田はこんなに有名になったの?
日本で初めて、磁器を作れる石が発見された・磁器をつくったのが、有田だったから!
上有田に「泉山磁石場」という場所があって、朝鮮人陶工士・李参平(りさんぺい)によって発見された場所。
挑戦からの焼きもの技術は佐賀だけでなくいろいろな地方に伝わったけど、材料が採れるということが最大の強み。全国に先駆けて、急速に磁器産業が発達していくのです。
Qお偉いさん用の器だけでそんなにたくさん作る必要ある?
磁器を欲しがったのは、実は海外のお偉いさんもだった!
鍋島焼は佐賀藩主お抱えだったけど、有田焼は海外への輸出がかなり盛んだったらしい。
ちなみに、海外勢からしたら伊万里焼。伊万里から出港した船の荷物だったからね。
行き先はヨーロッパで、貿易相手はオランダ。
もともと磁器は中国の重要な貿易品だったけど、国内動乱によって衰退してしまった。
大陸から大きな影響を受けて発展した日本の磁器は、中国がそんなことになってしまう頃には同じくらいのレベルまで技術が発達していたから、代わりになったという流れ。
時計やシャンデリアなど、西洋の道具もあったみたい。
主にお金持ちの家の装飾品だから、とにかくでかくて派手!
白い地の色が見えないくらい絵が描かれているのが、このとき(古伊万里)の特徴。
Q決まりがあるようで、意外と作風が色々じゃない?
絵のテイストには流行りがあった!
前述の古伊万里的な絵付けが増えたのは、海外に輸出されるようになってから。
もともとは藍一色の染付。ちなみに一番最初の頃は、陶石中の鉄分を取る技術が発達していなかったから、今みたいに真っ白な地じゃなくて、少し灰色がかってたり粒が混じってたりする。
現代の作家さんであえてそう作ってる人は、初期の有田をイメージしてるのかも。