作家とはなにか
自らの内へおはいりなさい。あなたが書かずにいられない根拠を深くさぐって下さい。(リルケ)
昨年末を最後にお休みしている「道草の家の文章教室」を、再開はせずに、あらたに「道草の家のワークショップ」として始めようと思っているのですが、具体的にどうするか? というところで、いろいろと模索中。詳しいことは近々、書くことにして、今日は「作家とはなにか」という話を書いておこう。
先日、犬飼愛生さんと「詩人とはなにか」(という質問をされたが、どうこたえよう)という話をしていた。
ちょっと簡単にはこたえられないような気が私はする。詩を(一度でも)書いたことがあれば詩人だということになれば、たぶん私も詩人ということになるが、私は自分を詩人だとは思っていない。いや、でも、それは詩ですか? と言われたら、何とも言えない。「詩とはなにか」という問いがそこに入ってくる。真面目に取り組んだら本が一冊(あるいは何冊も)書けそうな問いではないか。詩は詩人だけのものだ、というものでもないような気がする。
詩集を1冊でも出していたら詩人? でも、たとえば小説家や美術家と名乗る人で詩集を出している人はたくさんいるだろう。詩集をたくさん出していたらいいのか。では何冊から詩人になるの? というのは半ば冗談で、そんな定義はないのだ。
しかし書いている人が、自ら「ここで私は詩人になった」と感じた瞬間というのはあるのだろう。だいたい「作家」と違い、「人」が問題になっていますからね。なかなかに奥の深いことばなのだ。
あ、ちょっと待って、でもね、「作家」にもいろいろあるんだ。
私は、これまでやってきた文章教室で、書いている人はみんな作家です(そう思って書こう)、というふうに言ってきた。
何かを意識して、と付け加えたいところだ。ただ文章を書くだけなら、作家でなくてもやる。書きたいと思って、書くのだ。仕方なく書くのではない。
何かのスポーツ選手が毎朝、走っているというようなものであると私は考える。走らずにはいられないのだ。
そういった、トレーニングを欠かさないということが、日常の、自然な状態である、と。
作家とは何か? 私にはある程度、明瞭なこたえがある。
まず、日常的に書いている人であること。たまに書くだけなら、作家でなくてもやっていることだから。とにかく毎日のように何か書いている。
それから、書きたいことがなくても書いている。書きたいことがあって書くのなら、作家でなくてもやるだろう。書きたいことが見当たらなくても毎日(のように)書いている人のことを作家という。もっと言えば、書いているうちに、何事かが立ち現れてくる。その逆ではなくて。
それ以外の人はきっと自らのことを作家(ものを書くことが自分の仕事の中心)だと思っていないだろう。もちろんそれでも全然いいんですよ! そういう人の方が多いだろうし。
ここで言う「作家」とは、その人を研究したら、「書く」ということがどういうことかを見出せるような人のことだ。
そうなると私は作家ということになるか? どうか。私は自らを「道草家」と名乗っている。作家も道草家もたいして変わらないんじゃないの? 道草家の方が独創的? まあそうかもしれないね。でも、独創的かどうかという問題でもないような気がする。私はあまりそういうことに興味がないみたいで、興味がないなりに考えてみたことを書いた。興味ありそうな人がもっと考えて書き示してくれたらよいのですが…
ウダウダ言ってないで、というか、ウダウダ言いながらでも書きたければ書けばいい。それに、できれば気分よく書きたい。書くなかに歓びを見出したい。というより、見出しているからやっているのだ。書くことは愉しいよ。音楽を奏でるのは愉しいよ、というようなものだ。まずは鳴らしてみよう。ことばで遊んでみよう。もっともっと自由になっていいのだ。と、私はそうやって感じる。書き続けて、もっともっと遠くまで旅をしたいのだ。
(つづく)