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想像の源泉
ぼくにはいつも何かひっかかることばがあり、たとえば「すごい」というのがそうだ。たしかに自分にも「すごい」と言ってしまう場合がある。だからこそ気になる。すごく、どうなのか。本来は何かを強調することばではないか。そういえばぼくの故郷(鹿児島)では「わっぜえ」という言い方があり、とてもきつい場合「わっぜえ」と言い、たいへん素晴らしいことを「わっぜえ」と言う。いいこともわるいことも、そのことばで表す(ただし書き言葉では使わなかったような気もする)。それが宮崎に住んでいる幼馴染に伝わらなかった時のショックを、いまでも記憶している。
最近は「迷惑だ」も気になっている。たしかに使ってしまう場合がある。こんなに気にしているのに、つい使ってしまうのだから、根は深い。何でもかんでも「迷惑」で終わらせてしまえるので便利なのだろう(そこは「すごい」と同じだが、「迷惑だ」を賞賛には使わないので少し違う)。家の前に知らないトラックが長時間、停まっているのは「迷惑」かもしれない(なぜそこに停まっているかわからないからだろうか)。しかし、人身事故が起きて電車が動かなくなることを「迷惑」というひとことでぼくは言い切れない(なぜ電車が止まっているかを想像できる)。しかし言い切る人がいるのである(想像できないからだろう)。
想像するためには、知識や、経験が要るんだろう。──いま、我が子を見ていて、しみじみとそう思う。彼は、来月で7歳になる。まだまだ幼いこどもだというふうに見てしまうが、この数ヶ月で随分、変わった。人は変わるものなんだ、子は急激に成長するものなんだ、と彼を見ていて、あらためて教わっている(それに比べて学校や、学校の教師が問題に直面しても何ら変われない様子は見ていて痛々しいくらいだ)。彼は、とても嫌な、怖い思いをしたのだったが、その経験と、それを乗り越えんとして話し、聞き、読んだ経験が沈殿している。子にとっても、親にとっても、貴重な時間を過ごせていると実感している傍で、子が言う。「パパのはなしはあらい!」──パパの話は粗い、だろうか。いつ、どこでそんな言い方を覚えたのだろう?