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"安心"のゆくえ
「やりたい仕事をする」という言い方が、たまに気になる。「たまに」というのは、いつも気にしていたらキリがないくらい多い言われ方だからだ。
「やりたい仕事」が何もなかったらどうするのか。だいたい、「やりたい仕事」とはどんな仕事か。
言えるのは、未知の仕事は「やりたい」とも思えないはずなので、「やりたい仕事だけやってる」という人に会ったなら(会ったことがないが)「わかりきった仕事だけしてる」んだねと言おうと思う。
「楽しく仕事する」という言い方もあるらしい。ぼくにはまず「楽しい」がよくわからない。楽しいような気がすることは、日々の中にいろいろある。仕事の中にもあるだろう。しかし「楽しく仕事しよう」と思ってするようなことだろうか。
だいたいのことは、楽しもうと思えば楽しむことができる、とぼくは思っている。
でも肝心の「楽しい」が、何とも曖昧で、「楽しいかどうか」で決めたり動いたりできないような気もしている。
昨日(「"支援"をめぐって」)、こんなことを書いた。
大切にされたい、そう誰もが願っている、そうぼくは思っている。
しかし「大切にする」とはどういうふうにすることか。
どうされたら「大切にされた」と感じるのか。
知的障害のある人たちと付き合っていて、ぼくがよく感じるのは、彼らが「安心」を求めているということだ。
何かに異常にこだわったり、固執したりするのも、知っていること、以前体験したことの中に「安心」を感じるからではないか… というのは、付き合いの浅い自分の勝手な憶測でしかないが…
そう思うのは、自分自身が「安心」を求めているからだろう。
あらゆる仕事は、最終的には、そこ(安心)に向かうのではないか、という思いすら抱いている。
会社に通って、月給をもらって、街で暮らすということには、たぶんいまの時代ならではの「安心」があるんだろう。
しかし、会社に「安心」が移る前は、おそらくその「安心」は家族のもとにあっただろう。家族が壊れて、会社に流れたのではないか。いま、2019年に、そんな想像をしてみる。
これから、会社も(おそらく)壊れて、その「安心」はどこへ流れてゆくだろうか。
ぼくの場合、7年ほど前に、いまの生活スタイルに行き着いて、収入は少なく仕事は安定しないまま、しかしいろんな人に助けられて(助け合いながらと言っていいだろうか)暮らしている。
家族にも助けられているが、いまの自分にとっての「安心」は、家族だけで支えられるものではないような気がしている。もっと、ボンヤリとはしているが、自分のオリジナルのコミュニティの中で生きている。
「自分は何をしたいんだろう?」と思うことはよくある。
しかし、それはそれで、よくわからないまま、やってゆくのも悪くないではないか、と思っている。
──仕事が楽しいかい?
う〜ん。楽しいこともあるかなぁ。よくわからないや。「楽しい」は、結構どうでもいいかなぁ。
──じゃあ、どうでもよくないことは…
日々の仕事、生業というか、営みというかさ、それにかんしては、「苦じゃない」っていうことが大事だと思う。
(つづく)
「道草の家・ことのは山房」のトップ・ページに置いてある"日めくりカレンダー"、1日めくって、5月24日。今日は、"森"から帰って来た息子のお土産の話。
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